バンコクでの暮らし
実際のところ、自分がクルンテープ(バンコク)にいたのは何年くらいなのだろうか?
タイ国内の各地に散在する採石現場や、クアラルンプールを手始めに、カラチ、ニューヨーク、チューリヒ
ヨハネスブルグなど、他の国にいた時間は、それぞれ在留届を出さにゃならんような期間に及んでいる。
そう考えると、私がクルンテープにいたのは、せいぜい正味4年半くらいかも知れない。
ワタナーマンションのこと
まず、身近な様変わりを参照されたい。
ホワイクワン地区はバンコク北部の新開地で、適度に距離を保った中心街の見晴らしがよく、
雨が降る宵の入りなどは、VANGELISの”END TITLES
FROM (映画『ブレード・ランナー』テーマ曲)”を聴きながら、オレンジ色に燻る夜景を眺めているのが好きだった。 なのに、にわかに廊下で酔っ払った原住民が甲高い声でぺらぺらしゃべりはじめる。 男のしゃべるタイ語は、いかにも頭が悪そうに聞こえるものだ。 ここは近未来のロスではなく、所詮は東南あじあだったのだ… |
SGCのこと
「捨てる神、拾う神」と言うけれど、諸般の事情で日本に住めなくなった自分は、元タイ国学生バンタム級のチャンピオンにして、本朝ではレフェリーとして名高いウクリッド・サラサス先輩の助け舟を賜り、自前の収入源が確保できるまでの間、SGCというローカル鉱山企業で糊口をしのがせてもらうことになった。 職種は市場調査員。月給は二万バーツ。 日本人らしく生活するにはギリギリの所得だったが、真面目な現地人社員に比べて破格の待遇で、おまけに「押しかけ社員」という身分は、奥ゆかしい日本的美意識からするとべらぼうに後ろめたく、なにはともあれ、ひたすら有難かったものである。 しかし、のちに会社の幹部から聞いたところ、「クン・ウクリッドの後輩なら、いざという時、用心棒の役に立つだろう」という剣呑きわまりない目論見があったとか。 さすがはタイ人。風来坊の外人を弾除けに仕立ててしまう腹積もりだったようだ。 まあ、お陰でそれから二年間、厚かましく給料をもらい続けることができたわけだが… ちなみに、ウクリッド氏とは、汎アジア的な政治的運動の「先輩・後輩」であり、自分には、ボクシング選手のキャリアなど、まったくない。 非常事態に直面したら、もちろん裏口から一目散に逃げ出すつもりだったのである。 |
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タイには、「ノンイミグラント査証」という、よくよく考えてみると実にへんてこなビザがある。 外国人は高額な申請手数料を要するワークパミットがなければ原則として就労してはいけないというのがタイの法律だが、ノンイミグラントがあれば、多少の不法就労はお目溢しに預かれる。 遊び友達でドンムアン空港に勤務するおまわりにその理由を訊ねてみたが、答えは「マイルースィ(知らねえよ)!」だった。 ようするに、厳格な建前を設けつつも、外国人の労働力を巧みに利用しようという、この国の政治家ならではの小狡い寝技の所産であろう。 そんなわけで三カ月おきに査証更新のため、ちょっとした海外旅行気分を味わいながら査証もいらず、最も通いやすいペナンのタイ領事館へ赴く邦人は少なくない。 私が好きなのは、午後ホアランポーンを出発する寝台列車でひとまずハジャイをめざすコースだった。 |
平成11年暮れ、記録的な寒波に見舞われるインドシナを後にして、帰国。
2542年(平成11年)の年末、観測史上未曾有の寒波が、このお気楽な南国を席捲した。 北東地方では寒さに強いはずの象さんが6頭も凍死なさったらしい(合掌)。おれが白い息をはきながら、「ええ、こちとら7年バンコクに起居しとるがこんな寒さは初めてだ」と毒づくと、そばでタバコを吸っていたジジイ、さも楽しげに「こちとら70年クルンテープ人をしてるが、こんな寒さは初めてだ。くたばる前に真っ白な雪が見れるかな」だと。 …いくらなんでもそこまで寒かねーよ。 |
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