死の床の友人を見舞う
at 2003 05/02 13:26
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 昨日(5月1日)早暁、静岡に住む大学時代の友人の、細君から、架電。

 本人は大腸癌を患い、余命五日ないし一週間との由。

 文字通りの、寝耳に水だった。
 友人とは、去年の一月、出張先の名古屋から戻る途中、清水の街で会ったきりだった。


 取るものも取りあえず、予定をすべてキャンセルし、新幹線に飛び乗る。
 いつも、突拍子のないことをやらかすのは、俺のほうだった。
 ところが、最後の不意打ちは、いつも落ち着き払っていた彼が仕掛けてきたのだ。
 静岡県立総合病院のD5病棟。
 点滴のチューブを腕に絡ませた友人は、抗癌剤で土気色になった顔を、気まずそうにほころばせる。
 居合わせた細君が、気を使って席をはずすと、
 「覚悟はしていたんだが、無念だよ。でも、こればかりは仕方がない」
 サラリーマンをしながら、シナリオライターの勉強をしていた男は悟りきったように淡々という。
 「じつは去年の春に発病してな。いっぺんよくなったんだが、今度ばかりは、あと、五日か一週間のスパンだと、医者に告げられた」
 日頃の毒舌が切り出せず、俺は黙って友人の報告を聞いていた。

 「いろいろ、世話になった。それが言いたかった。ありがとう」
 むかしは彼の下宿を深夜の溜まり場にしていた。俺が吐き出す国や社会を憂うガキめいた気炎を、適当に聞き流してくれていたのも彼であった。しかし、礼に対する謙譲の言葉が出てこない。せめて、氷水で冷やしたタオルを交換する。普通サイズのタオルは、白無地だった。
 「いまはまだ、ちゃんと折りたたまないとな。広げて乗せるのは、来週だろう?」
 タオルを絞りながら呟くと、友人は力なく、それでも精一杯、腹を抱えた。
 「好きだなぁ、そういうジョーク」
 この男とは、昔から、バカ話の波長が一致していた。だから親しくなった。
 「まあ、俺のぶんまで、長生きしてくれ」
 面持ちをあらためると、友人は、らしからぬ、月並みな台詞を零した。ここへ来て、ストイックに生きてきた彼は「生存する」ことに人生の率直な真価を見出したのだろうか?しかし、健康を謳歌する俺には、現世への在留期間を明確に制限された友人の真意が、まだ、わからない。蒙に居直り、
 「長寿は約束できない。でも、そっちの分まで暴れまくってから死ぬようにする。それで、頼みと言っちゃなんだが、あんたが、ほとんど使わなかった荒魂、よかったら逝くとき、置いていってくれ。俺のやつはもう使いまくってボロボロになっている」
 と、うそぶいておいた。奇妙なドナーを頼まれた友人は、きちがいに新たな刃物を与えることに、躊躇なく、頷いた。
 一時間ばかり、与太話。細君が病室へ戻り、今生の暇乞いをする。

 「また、会おう」
 友人はパロディが好きだった。ベッドで目を閉じながら平成の松枝清顕は、病室の扉をあける俺に、力強く言った。
 「…滝の下で!」




とむらい
at 2003 05/16 13:38 編集
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 5月11日午後4時33分、静岡の友人が身罷った。享年39歳。
 1日には、余命5日か1週間、とされていたけれど、結局それから10日間、生き続けたことになる。
 もっとも、面会謝絶を条件に与えられた+3日間とは、なんとも虚しいボーナスではある。
 「三年前には白ネクタイ。それでもって、今度は黒ネクタイで来いってか?日本に帰って新調した礼服、まるでアンタのために誂えたみたいだ」
 「おう。そういうの、笑えるだろう。ネタにしてくれよ」
 1日に、そんなやり取りをした。大いにネタにして笑うのが供養というものか。あまり、良い趣味ではないが…
 スルガとは、インドネシア語で「天国」という意味である。霞に包まれた安倍川の景観は、映像美にこだわり続けた友人による「賽の河原の生中継」といったところか?幽玄だった。セレモニーホール静岡で、サザンオールスターズのバラードをBGMに流し、南国系の花に囲まれた友人の骸を見て、しかし、軽口を叩けた1日と、11日以降は、決定的に状況が変わってしまったことを痛切に感じた。霊界のメカニズムがまだ解明されていない以上、今後、俺の脳ミソがしばしば知覚するであろう彼の声は、いずれも記憶の再生か、俺自身の想像の産物として対処するしかない。死してなお生き続ける、などという思い込みは欺瞞だ。人間の実体は肉体でなく、年齢も性別もない魂魄である・・・と、英明なる仏教哲理は説くけれど、所詮、俗物の自分にとっては空々しく響く。やはり、欺瞞なのだ。
 だが、欺瞞を小賢しい知恵とわきまえて、辛うじて鷹揚としていられる俺はいい。一人息子を亡くしたご両親には、どうしても誠実なお悔やみの言葉が述べられない。チョンガーの俺には、その心情など到底察し得るわけがない。訳知り顔の神妙は、却って非礼にあたるだろう。
 いみじくも彼が息を引き取る数時間前、盛岡郊外で会った土地のおしゃべり好きなお婆さんが、恩師の言葉の受け売りとことわり、言っていた、
 「ウソはだめ。ウソは、つく人の利益だから。でも、方便は相手を思いやる心遣い。方便は、どんどんお使いあそばせ」
 お悔やみとは、方便の一種かも知れない。それでも俺は、まだ、この技能をさらりと使いこなせるほど成熟していない。ひとつ年上の友人は、いつしか自分に兄事していたこの俺に、足りない「常識」を訓練する場を提供してくれたのだろうか?

 後家さんとなった令閨は、奇しくも俺と同郷の人だった。終始気丈に、明るく振舞い、棺桶の蓋が閉まると、「儀式、おわったよ」と亭主に囁くように、指で棺桶の縁を軽く叩く。そして出棺間際に涙した。同世代に、こんな立派な女がいたのか、と、じんわり感心した。
 静岡の習慣では、先に荼毘を済ませて、それから葬式にもつれこむ。告別式が先の東京とは段取りが逆だった。
 『おう。どうだ?いい勉強になっただろう?』
 しきりに恩着せがましく脳ミソへ話しかけて来る骨になった友人に、あくまでも輪廻の再会を誓い、俺は娑婆の同志のもとへ戻った。

 6月1日午後二時、静岡駅南口、伊河麻神社で、ささやかな事件を起す。

 草葉の陰で本人は露骨に迷惑がるだろうが、死んだ友人のシニカルな流儀を拝借し、騒ぎを大いに演出してやるさ。
 それが俺なりの、弔い合戦なのである。





 ワットケーク奉賛会
 「おぼえがき」より移植


* 後日談 伊河麻神社の件、べつに「放火」ではありません。わかれ際に友人がパロディに用いた三島由紀夫の『春の雪』は、二年半後、映画になりました。弔い合戦の本番は、映画の封切と時期を同じくして、静岡浅間通り商店街(夢門前)で仕組んだ事件(イベント)に落着しました。『春の雪』から、『奔馬』を読み飛ばし、いきなり『暁の寺』へ進んだ感じです。…せめて、『天人五衰』の前に、『奔馬』をこなしておかないと、生き残った私の駄洒落は完成いたしません。


いきさつ こんな夢を見た


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