… いったい、 ここは、 どこなのだろう?


 自覚夢と承知していながら、レム睡眠の安逸をむさぼるおれは、ディパックを背負い、好奇心をくすぐってやまない不条理世界の逍遥を続けていた。

 うつし世は、熱帯夜。寝苦しさゆえに眠りはかなり浅いと見えて、目の前に広がる景色は総天然色をずいぶん脱線した、ガンマ値が低く、コントラストは高く、やけに赤みの毒々しいカラー映像だった。

 前衛絵画の夕暮れを髣髴させる朱色の空には、階段状に折り重なった同じかたちの山の黒い稜線が、すーぅ、と縦方向に向かって波紋を描いている。最初は筋雲かとも思ったが、とどのつまり、山だった。山裾らしきものは、自分が立っている地面と対をなす正面彼方の暗がりだけで、ほかはすべて金色の雲海が均一に、規格品めいた頂の真下へ迫っている。赤と黒、それに金色を加えた規則正しい錦織は、際限なく頭上高く登りつめていた。

 自分が辱知する空間の常識を無視しきった、荘厳な奇観だった。

 『よう、来ていたのか』
  呼び止められて振り向くと、難しい面持ちのナナケンが立っていた。
 白地のTシャツに、黒っぽいスェットをはいている。彼は大学の体育の時間や下宿のアパートでも、こんな格好をしていた。
 「ありゃ?そっちこそ、まだ、こっちにいたの?」
 ナナケンが三ヶ月前に死んだことは、夢の中のおれも正確に記憶していた。
 ところが死者はにべもなく切り返す、
 『お。読めたぞ。さてはおまえ、寝てたな?』
 その通りである。付け加えれば、今現在も寝続けている。いずれにしても、絵に描いたような不条理世界の住民基本台帳には、おれでなく、ナナケンの氏名が記載されていると考えたほうが無難であろう。立場的に、ここにいるのが不自然なのは、おれのほうなのだ。
 …すると、
 こうしてナナケンと向き合っているということは、おれも死んじまったのか?眠っている、というのがお気楽な勘違いである可能性は、ないとは言えない。
 しかし、「なんでまた?」と問い返すほど自分自身の死因に対する興味も湧いてこない。
 どうせ舌禍で誰かに刺されたか、流行の突然死でポックリ来てしまったか、いずれにしてもロクな死に方ではなかったはずだ。
 どうでもいい成り行きの推測であれこれ悩むのは時間の無駄というものである。
 西陽を浴びたように光るナナケンの顔に、病室で見せた土気色の痕跡は認められない。

 「ずいぶん元気そうじゃないか。え?おい」
 慢性的な金欠病のおれに、新幹線や御霊前で散財させた張本人である。皮肉をこめて挨拶代わりの釘を刺す。
 『まあ、でも、あの場合は仕方がない』
 他人事のように、ナナケンはうそぶいた。言うまでもなく、金欠など、浮世の因業のひとつであり、死んでしまえばどうってことはない。おれも本気で怒っているわけではなかった。
 「で、ここは、ようするに、"あの世"なのか?」
 しばしナナケンは自問するように考え込み、
 『うん。たぶん、そういうことになるんだろうな』
 と、当の住民からして確信が持てない調子で答えた。中有だか、中陰だか、どちらにせよ、ナナケンとおれは曖昧な定義の空間で再会しているようだ。
 「想像していたより、ずっと色彩が鮮やかな世界だ」
 とは言っても、さしあたって目に映るのは、赤い空と溶き流された金色の雲、それに黒い山陰だけではあるが…。
 「さすがは黄泉の国だ。いったい何だ、あの物理の法則を無視しきった山並みは?」

 天を仰ぎながら問いただす。
 『ああ、あれか』
 淡々とした口調でナナケンは説明する。
 『復元作用で、あんな風に見えるんだよ』
 あっさり言われても、おれにはさっぱり理解できない。いったい何が、どのように復元されているのか?さりとて、友人とは言え、異界の先住民に対して、つまらない質問を連発するのも気が引ける。
 「ふうん。なるほど、そうだったのか」
 ひとまず、おれは合点したふりをしておいた。
 足元から、白く光る横縞模様が、水平方向の彼方で静まり返る漆黒の闇までぎっしり並んでいるのに気がついた。水だろうか。そう言えば、喉がやけに渇いている。死んでいる以上、今さら腸チフスを恐れることもない。せっかくだから、飲んでやれ…
 『おい、気をつけろよ』
 制止するナナケンの声を聞きながし、無頓着にさざ波へ手を差し伸べたおれは、初めてぎくりと身を仰け反らした。冷たい感触、そして焼け爛れるような痛みがはしる。引っ込めた手を覗くと、一度に数振りの日本刀を握り締めたかのように、血まみれになっていた。
 『馬鹿だな。だから、気をつけろ、って言ったんだ。いいな、責任は自分で取れよ』

 血がドバドバ溢れていたが、反論の余地はない。軽はずみに天然の凶器に触れたのは、日頃危機管理を唱えているおれにあるまじき落ち度だった。
 「うげえ。なんだよ、ここは、葉刀地獄だったのか?」
 もっとも、おれは男色家ではないし、ナナケンに衆道趣味があったとも思えない。どちらも、葉刀地獄に堕ちなければならない謂れはない。
 『いや、ここは俗に賽の河原という。いま、お前が触ったのは、有名な三途の川だ』

 意想外の答えだった。
 「マジかよ。だって、ちっとも水が流れていないじゃないか」
 『川と聞くと、すぐに水を連想する。こっちの世界の常識を知らない素人は、すぐ、そういう偏見に凝り固まる』
 やり取りする言葉は以前と変わらず、理性と嗜虐的諧謔を含んでいたが、論理性がすこぶる退化している印象を拭えなかった。…否、これは、省略されている、と言うべきか。漠然と感じる違和感は、脱皮という手続きを踏んで結実したナナケンの人格的成長によるもの、と弁える。
 「よもや、センセイから偏見を諭されるとは思いもよらなんだ」
 センセイとは、一浪ゆえに年下のおれと同学年となったナナケンに対する、埋め合わせの敬称である。生前のセンセイは、人種偏見が強かった。
 血が止まったので、気を取り直しておれは訊いた、
 「するってえと、餓鬼や奪衣婆って人たちは?」
 ケルンを積む、幼くして親に死に水をとらせた子供たちの姿もない。しかめっ面して、ナナケンは申し訳なさそうに頷いた。
 『そういうのも、いない』
 「ふーん。いないのか」
 妙に納得しながら、ナナケンの言葉から、自分の身体が、まだ可動状態でうつし世に存在しており、それでもどういう僥倖か、意識は我々の世界で言うところの「死後の世界」を見物していることを悟った。さして嬉しいとも思わなかったが、浮世には色々と忘れ物もあるし、さしあたって生きている自分にホッとする。
 「でも、なんで完全に死んだセンセイが、まだ賽の河原をうろうろしているの?亡者になったのか?」
 するとナナケンは呆れたように言った、
 『シャレにならないだろうが。おまえ、いま、怪我したばかりだろう?そういうもんなんだよ。本腰入れて三途の川を渡ろうとしたら、二十メートルも行かないうちに骨までズタズタになるぞ』  
 死後の世界のシステムは、浮世の坊主が訳知り顔で言っているほど単純には割り切れない代物らしい。
 「火葬場でセンセイの骨を拾ってやったけど、それでもまだ、こんな惨い目に遭わなければならないわけ?」
 『いや、これはな、じつは別あつらえの身体だ。こっちに来て、貰った』
 会話の歯車に異物が挟まった。だが、おれは意に介さず、ナナケンのペースに食い下がる。
 「そもそも、あんたには実体があった、というのが驚きだよ。さっきから話しているけれど、てっきり幽霊みたいなもんだとばかり思っていた」
 こいつ、馬鹿か? と言わんばかりの眼差しでおれを哀れみ、因果を含めるような調子で、
 『とにかく、体はあるし、中身は同じだよ。そういうものだ。わからん人だな、アンタも』
 と、突き放す。
 …突き放されたって、わからんもんはわからんよ。
 そこはかとなく文明国人がまとう衣類を初めて目の当たりにする、未開の裸族の心境を思った。
 『変わり映え…しないが、これはとにかく、新しい身体だ。ほーら…こうして足もちゃんと…ついているだろう』
 本人は陽気だが、会話が所々、噛み合わなくなってきた。何かの弾みで惹き起こされたオクターブ現象によって接続された二つの亜空間のあいだに、自浄作用の歪みが生じている、と、直感する。ナナケンも同じことを思ったらしく、お互い地震をやり過ごすように、しばし沈黙。
 「それじゃ死んでも、やっぱり怪我したりするわけ?」
 ブレが治まると、先手を打って質問した。
 『…あたりまえだろう。死んだら霊魂になって自由になる、なんていうのは、生きている人間の手前勝手なユートピア願望だ。現実は、それほど甘くはない』
 会話の波長が元にもどった。
 「やっぱり、おそろしい所だね。三途の川って。でも、いったい誰なんだ、六文銭で乗れる渡し舟がある、なんて暢気な法螺を吹きやがったのは?」
 するとナナケンは、にわかに不機嫌になった。
 『おまえ、もう、いいから帰れよ。ごちゃごちゃ五月蝿いし』
 言われなくったって、こんな場所にいつまでも留まる心積はない。しかし、せっかくここまで来た以上、なるべく「死後の世界」の見聞を広げておくのが好事家の本分だろう。
 おれは最初から漠然と感じていた疑念を口にした。
 「ところで、センセイ。ここ、本当は、おれの夢の中だと思うのだが」
 『おまえの位置から見れば、もちろん、ここはおまえの夢の世界だ。しかし、けっきょく、同じ世界でもある』
 聞き捨てならない言葉尻に耳をそばだてた。
 「同じ、とは?」
 生前を通して、彼にしては珍しく、懇切丁寧な説明が必要と感じたのだろう。ナナケンはおれの顔を直視した。
 『つまりだな。死後の世界というのは、夢の世界そのものらしい。…いや、おれもはっきり確認したわけではないけれどさ、互換性もあるんだよ。人間はうつし世にいるあいだに、死んだ後に住み着く世界をあれこれ物色しているわけだな。夢というのは、いうなれば住宅展示場めぐりみたいなもんだ』
 互換性という言葉が、黄泉と夢から除け者扱いされている浮世の座標を、そこはかとなく解析していた。
 「住宅展示場かよ。そういう言い方、俗っぽいなあ」
 『それは違う』
 相槌代わりに軽口を叩くと、ナナケンは現下に否定した。
 『通販カタログや現品を見て、人間はたびたび自分の好みを点検する。いいか、ここがポイントだ。買い物は欲望を満たすプロセスではない。生きていようが、…に…しようが、…の本質は、そういうものなんだ』
 肝心の、死後の世界における「生存」を包括する幾つかの黄泉言葉を聞き漏らしてしまった。いや、確かに聴いた。だが、その甘美な響きをともなう専門語は、馬耳東風とせせら笑うかのように、おれの意識の版図から流れ去った。夢の領域に在る者には、記憶するのが早すぎる単語、という神の采配か。興味は尽きなかったが、執着して問い返すことは、差し控えた。
 おれはこれから浮世へ帰らなければならない。
 それが柄にもない謙虚さの、漠然とした恐怖を秘めた言い訳かも知れない。
 「なあ。センセイに会ったという証拠の品を持ち帰りたい」
 無茶を言うな、と言われるかと思いきや、ナナケンはやけにあっさりと、
 『おお。それだったら、お菓子があるぞ』
 と、何処で仕入れたのやら、あやしげなダンボール箱に、紙くずといっしょに、ぎっしり詰め込まれた一万円札を寄越した。政治や入札談合と無縁の生涯を送ったナナケンに、現金を「お菓子」と呼ぶセンスがあるとは考えにくい。あるいは「おあし」と言ったのを、おれが聞き違えたのか?いずれにしても、所詮おれはカネの亡者だったようで、慎重に紙くずを選り分けながら、一枚一枚、紙幣を抽出する作業に没頭した。百六十万円まで数えた記憶がある。そして、さらに千円札や五千円札を掻き集めた。
 「よし、これ全部、持って帰るぞ…」
 信販会社や友人から借りた金、未納になったままの税金や国民健康保険料。リアルな借金の返済計画を思案しながら立ち上がると、ナナケンの姿はなく、ぐるりを見回すと、おれは何年も前に店じまいしている近所の八百屋の店先で、ふたたび貪婪な銭勘定をはじめていた…
 夢であることは始めから承知していた。
 睡眠がすでに途絶えていることも薄々察知していたが、異界の現金を握り締めている手に固執するおれは、目を開ける決意をしばらくためらった。
 そして、どうせ持ち帰れない、と判りきっている幻の現金なんかにうつつを抜かさず、時間いっぱい、ナナケンに"あの世"の様子を訊いておくべきだったと、後悔した。





 寝床で、外を走る新聞配達のスーパーカブのエンジン音を聴きながら、俺は思った。

 この前死んだ静岡の友人は、今もどこかで、それなりに元気に暮らしているのかも知れない。
 むしろ、この世とあの世の関係は、虚構的なものに過ぎず、ただし、現段階の人類は、まだ真理を把握していないため、「死」という当然にして平等な移管現象を必要以上に深刻視し、悲しみや恐れの対象に位置づけているだけではないのだろうか?
 もちろん、俺にしたって、畢竟何もわからない。ただ、そんな予感がする。

 蛇足ながらつけ加えておくと、「死」ではなく、「人生」も、ひょっとしたら万人平等、否、いちおう帳尻が合う仕組みになっている可能性も感じられる。貧乏人は、不幸かも知れない。だが、素封家も、死に際になって、愛着ある富と別れなければならず、そこで覚えるであろう執着心は、やはり因業と呼ぶにふさわしい不幸である。そして、あまねく不幸は、魂魄の修行にすぎないのではないか…

 ボケた脳味噌で、つらつら思い、覚醒を忌避して、ふたたび惰眠をむさぼる・・・zzzzz......



[PR]動画