南京ゾンビ B


 事件の発生から半日が経過していた。
 市街地は、火事場泥棒も少なくなかった。
 無人となった家屋へ侵入しては金目の物を盗み、洗城礼の作法に則って「被槍一空」の張り紙をしてまわった。
 悪名高い雲助タクシーの運転手、劉平原も、騒動によって本性を剥き出しにしたひとりである。劉はすれっからしの仲間を率い、中華共和国では有力な機動力となりうる朱塗りのダイハツミラ軍団を以って、せっせと治乱興亡四千年が編み出した人民の知恵と勇気を実行した。
 「むんっ!」
 体重百貫もあろうかと思われる、雲をつくようなスキンヘッドの大男が、口元のドジョウ髭を振るわせて、命乞いしていた庭師の頭蓋を握りつぶした。真冬なのに上半身裸で平然としていられるこの唐人力士は、劉平原の弟で、一度に百人を畏怖させる迫力を備えていた。こうした暴力の権化みたいな弟と、兄の悪知恵が結託したものだから始末が悪い。
 かねてから隙あらば忍び込んでやろうと目をつけていた党幹部の豪邸に、堂々と乱入した劉一味は、想像していた以上の貴金属や美術品、証文、念書、有価証券を目の当たりにして、これを自分の車へ運び込む作業に忙殺されていた。
 「老板(ボス)」
 子分の一人が、殺害した党幹部一家の中で、唯一生き長らえさせた娘々(十九歳)を強姦している劉を呼ばわった。
 「あらかた盗んだ。次は、どこだ」
 埒をあけると劉は傍らにあった蜀台で相方の腹を刺し、無表情に立ち上がる。
 「白虎路の方将軍の邸宅だ」
 まだ家族と再会できずにいる娘は、蜀台で串刺しにされた腹を抱えこみ血の海でもんどりをうっていた。無感動に劉は命じた。
 「屋敷に火をはなて」
 行き場を失った流民が合流し、手下の数は増えていた。劉の弟を指揮官とする原動機つきリヤカーの一群が隊列を先導し、青龍刀やインド風棍棒を握り締めて荷台に仁王立ちする剛の者が、この界隈に進出してきたゾンビの首をはね、頭を打ち砕いて奇声をあげた。あかあかと燃え上がる賄賂御殿を後にする劉の脳裏には、自らの皇帝即位という壮大な野望が明滅していたかも知れない。
 燃えているのは党幹部の屋敷ばかりではなかった。火は、あちらこちらから上がっていて、街路は真昼のように明るかった。行く手で、一党の同類らしき数十人が、盗品を背負って百体余りのゾンビと攻防戦を繰り広げていた。
 「老板。加勢してやりますか」
 腹心の問いかけに、数百を従える劉はあっさり言った。
 「両者もろとも、踏み潰せ」
 命令は忠実に実行され、後続部隊が轢死した同業者の背中から、効率よく荷造りされたお宝を引き剥がした。
 「立ちはだかる者は、すべて殺せ。南京の富をすべてこの手に握るまではな!」
 劉の号令に、野蛮な叫び声が怒涛のように応えた。
 業の深い連中は、こうして巨大都市にいつまでも留まったため、やがて増殖したゾンビの波に飲み込まれ、だが、死してもなお、彼らは生前と大差のない行動をとり続けたのである。



 集音機器は壊れていた。しかし、カメラは生きている。
 「いい絵が撮れたぞ」
 一行の中で、カメラマンは特筆すべきプロだった。安全地帯とおぼしき城門の上に陣取ると、人間が人間を食らう、中華四千年の食文化の現状を、しっかりビデオに収めていた。筑後とディレクターは、食い入るように中世ギリシアの奇習を髣髴させる、酸鼻きわまる光景を眺めていた。
 「しかし、この現象はいったい・・・」
 「彼らは人間ではない。ゾンビです」
 ようやく、一同の認識は一致した。
 「なあ。早く、こんな町から出ようじゃないか」
 「そうですよ、ホテルには、まだヘリコプターがあるかも知れません」
 団塊の世代の製作部長とミーハー根性から業界入りした音声係は抱き合うようにして震えていた。
 「ホテルまで、どうやって戻るんだね?道は、ごらん、あの通りだ」
 ディレクターはゾンビの群れに満ち溢れた街路を指した。筑後が補足した。
 「退路は右手。こっちは、壁が彼らの拡散を阻んでいる」
 すると、カメラマンが素っ頓狂に叫んだ。
 「喜ぶのはまだ早いです。右手からも来ました」
 筑後哲也は俳優のような仕草と表情で、どこで拾ったのやら、京劇団が使用していた青龍刀を握り締めた。
 「落ち着くんだ。数は少ない。突破しよう」
 手の空いている者も、それぞれ手近な鉄パイプや角材を拾った。
 五人は城門を転げ落ちた。その際、ディレクターが足首をひねった。
 「自分にかまわず、早く逃げてください」
 「わかった」
 即答する製作部長を跳ね除けて、音声係が手を差し伸べた。
 「逃げられるところまで、逃げましょう」
 はじめ臆病風に吹かれていた高度経済成長の子は、キレていた。理性を欠いた彼は、学校で習ったヒューマニズムに則り、ディレクターを担ぎ上げる。製作部長の、悲鳴に近い怒声がとんだ。
 「馬鹿。怪我人を担いでいたら、やつらにすぐ追いつかれるぞ」
 「大丈夫。彼らは歩くことしかできません」
 これまでファインダー越しにゾンビの動きを観察していたカメラマンが冷静に答えた。
 「諦めろ。そんな悠長なことを言っている場合か!」
 我が身可愛さに絶叫する製作部長の背後に、もうひとつの人影が迫っていた。部長が振り向くと、瞳孔の開ききった目が炯々と数十センチの距離にあった。
 「ぐあっ!やめろ!やめてくれえ」
 喉を噛まれる部長は、白目を向いて恐怖と苦痛に抵抗した。そして遠ざかる四人の後姿に手をさしのべる。
 「助けてくれ!苦しい!たのむ、置いて行かないでくれえ・・・」
 力なく断末魔をあげる部長が、生きている人間として最後に見たのは、四人を追って溢れ出す、新たな仲間たちのおびただしい姿だった。
 「筑後さん。製作部長が」
 数百メートル走って、カメラマンが立ち止まった。
 「仕方がない。諦めよう」
 カメラマンは続ける。
 「立ち上がっています」
 音声に抱えられるディレクターが言った、
 「やっぱり、ゾンビだ」
 筑後は結論づけた。
 「やっぱり、諦めよう」
 一同が止まったのには訳がある。目の前の暗がりから、数はそれほど多くはないものの、新手のゾンビが出現したのだ。
 かつてゲバ棒の振るい方を後輩に指導した筑後は、近づいてくる亡者を立て続けに二体、あざやかに切り伏せた。
 「足は大したことない」
 ディレクターは、音声係から身を離し、道端に転がっていた太目の鉄筋を掴んだ。これで勢いを得た一同は、ひたすら正面に現れるゾンビを悉く粉砕して前進した。木口小平の決意を固めたカメラマンは、筑後ら三人の仲間の露払いにより、生命賭けの強行突破の一部始終を撮り続けた。


 事件の発生から三日が経過していた。
 壁に激突して燃える自動車が、風に舞う「中日友好的美女快楽」のチラシを照らしていた。印刷された岡本の絵が汚い靴に踏みつけられる。どれもおぼつかない足取りだった。南京市街は、すっかり徘徊する死者たちによって占領されていた。
 頑丈な扉と壁で固められた南京富豪大酒店は、そんな市内に孤立する生きた人間たちの僅かに残された砦だった。
 従業員たちは消火栓の斧を手にして玄関前に待機している。
 中二階のロビーには不安に駆られる土門、辻、藁、それに近江の顔がならんでいた。
 「じ、自衛隊はまだなの?」
 土門たま子の問いかけに、藁陽子は順を追って回答した、
 「海外派遣ですから、まず、総理に緊急国会を召集させて、両院で定数を確保し、法改正の決議を取らなければなりません。でも、法案は我が党にはありませんよ」
 「慮外な!悠長なことを言っている場合じゃないでしょう。いいこと、平和憲法党は全員賛成します。いますぐ、自衛隊を派遣させなさい」
 凋落はなはだしい自党の議席数を、意気込んでしゃべる代表は忘れきっていた。
 「でもな、陽子ちゃん」
 辻が党首に聞かれないよう、小声で藁に耳打ちした、
 「この事件がはじまった日、屋上から筑後さんたちが駆け下りていくのを見たの。それで屋上に行ったら、ヘリコプターが止まっているんや。まだ、誰も気づいてへんけど」
 嬉しそうに目を輝かす藁陽子の口を、辻は慌てて塞いだ。
 「大きな声出したらあかん。ヘリコプターは六人乗りや。ここにいる人間全員が乗ることはできないでしょ。パニックになって、我先にって奪い合いになって、壊してしまうのがオチ。だから、いざともなったら、とにかく上に逃げる・・・」
 あくどいパーマ液のニオイが辻の鼻腔に流れ込む。土門たま子が感心したように聞き耳を立てていた。
 「なるほど。聖美ちゃんはセクトのゲリラ戦エキスパートですからね。ヘリコプターの操縦くらい、朝飯前だわ」
 口元を緩める辻は、自分たちの党首の地獄耳を、すっかり忘れていた。藁陽子に、「そやから、日本に帰ったら、私の党首就任を死んだ気になって押すんやで」と釘を刺す計略は水泡に帰した。



 四人に減ったTVSクルーは、走れるだけ走った。どこをどのように走ったかは、誰も覚えていない。目の前に現れた巨大な建造物は、火力発電所だった。
 「ここへ逃げ込もう。ゾンビは火を恐れるものだ」
 断定すると、筑後は迷わず施設に飛び込んだ。ところが火の落ちた発電所は、行き止まりに突き当たったゾンビたちの一大集積所になっていた。
 「そうか。やつらは、泳げないのだ」
 あらためていい加減な仮説を口走ると、筑後はゾンビの列の先端までダッシュして、その先にある、雨水で池となった燃え滓の投棄所へ飛び込んだ。カメラマンと音声係は突破に成功したが、足をくじいていたディレクターがバランスを崩した、
 「ああっ、たっ、助けてくれえ・・・アアーッ!」
 と、転んだ男は声を裏返して悲痛な叫びを残し、ゾンビの波濤へ消えた。
 だが、彼らの逃亡劇は、まだ序章を終えたばかりにすぎない。



 事件の発生から十日が経過していた。
 金ラメの、エンゼルフィッシュのような衣装をまとい、ひときわ強烈な死臭を放っていた髪の長い一体が、溶けるように崩れた。赤茶色に晴れ上がった仁王のような顔からは、眼球が毀れ、粘膜質の唇もくずれて歯が露出している。いわゆる第二期死体現象を超過している状態で、青い肌をした他のゾンビより古く、つまりは騒動の初期に生命活動を停止した人間の抜け殻だった。肉体を構成する筋肉細胞の分解がここまで進むと、頭の悪いアメリカ人が創造する半永久的に徘徊を続けるゾンビと違い、東洋の亡者には、合理的な終わりがあった。 
 有機物の分解を遅らせる冬という季節が、怪事件の拡大を危惧する生者たちにはうとましかったけれど、さしあたり、被害を局地にとどめ、持久戦に持ち込めば、不幸にして化け物となった人々全員の「第二の死」をもって、事態の終息を図る方針が確立された。一時は核爆弾の使用も検討されたが、忍耐強さを矜持とする中華人は、一部、欧米帰りの人権派代表委員の説得を呑み、先の読める長期戦を歓迎した。
 「愚かな一人っ子たちめ!」
 日本では傲慢無礼な押しの強さで知られる江濯民国家主席は、一面、真の政治家として必要な資質をすべて持ち合わせていた。
 「生半可な決断は国を誤る。私は最後の国家主席になる気はない。辞任する」
 人民大会堂を後にする江は、早期の核爆弾投入を主張していた。
 報道管制が敷かれる中華共和国では、事件の詳細こそ地方の人民には届かなかったけれど、政府の強権によって、すべての人民に対し、南京方面への旅行を中止させることができた。暫定的に、ではあったけれども、こうした全体主義が事件の拡散防止という不幸中の幸いをもたらしたわけである。



 事件発生から半月余りが経過していた。
 正月ということもあり、日本政府の対応は遅かった。いや、政府与党部内には、いつも苔の生えた近代史と眉唾な日本の過失を論っては生意気な態度で慰謝料をせびりに来る中華共和国で発生している怪現象に対し、「へっ、いい気味だ。どうせ蓋を開けてみりゃ、いつもの白髪三千丈だろうから、捨て置け、捨て置け」みたいな空気が蔓延していたのも否定できない。うっかり示した思いやりが、逆手に取られ、後々鬱陶しい尾を曳く近隣諸国の理不尽な論理さを、現代の日本人は嫌というほど学んできた。
 ところが、水面下では意想外な部署が、南京ゾンビ事件に介入を試みようとしていた。
 六本木の陸上自衛隊幕僚二課に、気障な二枚目幹部隊員が呼ばれていた。
 幕僚長は厳かにいった。
 「桃崎一佐。いよいよ君に出番がまわってきたぞ」
 これを受けて色男は、
 「ふっ、すると、ついに降魔が帝都にあらわれたのですな」
 ぜんぜん新聞を読んでいない私生活をあっさり露見させた。
 しばし額を押さえ、すっとこどっこいでも解る言葉を選ぶと、幕僚長は本論に踏み込んだ。
 「あいにくだが、君に赴いてもらうのは中華大陸だ。じつは、いま南京がたいへんなことになっている。国会議員の土門たま子、辻聖美、それに藁陽子タンの三氏が化け物を撃退しながら、ホテルに篭城している。救出してほしい」
 「ふっ、これは妙なめぐり合わせですな。日頃、自衛隊の廃止を主張している平和憲法党の幹部、を救出ね」
 皮肉だけは、いっぱしだった。賢人機関と自ら名乗る謎の組織の長老が、若造のご機嫌をとるように口を挟んだ。
 「君には破邪の血が流れているそうじゃないか。いやいや、たいしたものだ。期待しとるよ、新宮寺・・・いや、桃崎一佐」
 たいしたものだ、を連発する賢人に、一佐も満更ではなかった。
 「ふっ」
 とことん思い違いをしているのは桃崎ばかりではなかった。幕僚会議は、ホラー分野のゾンビ相手に陸上自衛隊の対オカルト秘密ユニット「対降魔部隊」の中華共和国派兵を決めたのだ。もっとも、こんな場合でなければ降魔部隊など他に使い道がない、というストイックな理性も介在していたかも知れないが、声にはならなかった。
 「あんな小面憎い女ども、見殺しにしちゃえばいいのに」
 苦々しい面持ちで臍をかむ正直者の将補を尻目に、幕僚長は潔く、
 「よろしく頼んだぞ、桃崎一佐」
 と言って、厳かに敬礼した。常日頃、自分たちの存在を憲法違反といっては否定する土門一味に、この機に乗じて恩を売っておこうという政治的打算もあったが、これも声にはならなかった。
 「ふっ」
 ちなみに帝国の時代とは異なり、予算の都合で、陸上自衛隊対降魔部隊には隊員が桃崎一人しかいなかった。





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