ククリット・プラモード元首相について





十二月八日


日本のおかげで アジア諸国はみな独立した

日本と言うお母さんは 難産して母胎をそこねたが

生まれた子供たちはすくすくと育っている

今日東南アジア諸国民が 米英と対等に話ができるのは

一体誰のおかげであるか

それは身を殺して仁を為した日本と言うお母さんが

あったためである

十二月八日は我々に

この重大な思想を示してくれたお母さんが

一身を賭して重大な決心をされた日である

我々は、この日を忘れてはならない



ククリット・プラモード


 私の周辺にも、新聞記者時代(大東亜戦争直後)の元首相が詠んだ「十二月八日」に感動している愛国者は少なくない。戦後のタイで初の文民首相であったククリットさんが、大東亜戦争を正当に評価してくれているわけだから、自らの矜持と歴史観に自信をいだくのは当然の成り行きと言えよう。他でもなく私自身、斯くありたい、と願っている。

 この詩は、「戦勝国」となりながらも、実質的に英軍の占領下におかれているタイの、一インテリ青年の包み隠さぬ真情だった。
 しかし、晩年のククリットさんは、はっきり言って「反日家」だった。平成日本の愛国者は、その点をすっかり見落としているし、あるいは知らずにいる。
 死の直前まで、主宰するサイアム・ラット紙に硬派で辛辣なコラムを書いていたククリットさんは、痴呆症とはついに無縁の老人だった。決して「日本の戦争の侵略性に気がついた」わけではない。
 老境に達して糖尿病が悪化し、車椅子の不自由な生活を余儀なくされていたククリットさんは、しばしば日本の大学から、「本学の名誉博士号をやるから、日本まで取りに来い」と言われ、相当頭にきていた。また、部下であるサイアム・ラット紙の記者さえも、めったにサートン通りの自宅へ招き入れないのに、アホ面をさらした日本の右翼は、あたかも神様に謁見を求めるかのような慇懃無礼さで前触れなく押しかけてくる…ククリットさんを反日家に仕立てたのは、他でもなく、戦後民主主義にかぶれた日本人の無神経さと、先達の遺骨ばかりしゃぶって、一向に自分たちの世代の責務(使命感)に覚醒しようとしない日本人愛国者のレトロ感覚に対する苛立ちだったようだ。

 思えば、師匠のソムアンさんにせよ、マレーシアのノンチックさんにせよ、ビルマのボー・ヤン・ナインさんにせよ、どすの利いたアジアの爺さんたちは、みんな棺桶に入る直前、異口同音に私に言ったものだ。
 「大東亜戦争が正しかったかどうか、まだわからない。いずれにせよ、日本人は『大東亜共栄圏を作る』といってアジアの民衆を戦争に巻き込んだ。武力戦で英米に遅れをとろうと、日本人が立派な大東亜共栄圏を完成させれば、日本の戦争の正義は貫かれる」

 大事なのは、歴史の検証や、ましてや靖国議論などではない。武力戦は終わっても、大東亜戦争には、まだ建設の大いなる作業が残されている。爺さんたちが求めていたのは、現代日本人の「行動」だったのである。

 ソムアンさんの使い走りでククリットさんに会ったのは二回だけだった。深い話はついに聴けなかったが、とどのつまり、この人も、同じことを現代日本人に訴えたかったのではあるまいか。

 反日家といいながら、日本人である私に、妙に温かく、懐かしいオーラを感じさせる人物だった。





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