地球にやさしい ?



 そもそも、
  「地球にやさしい」
 などと言い出す料簡自体が勘違いの極みであり、血迷った増長なのである。

 霊長類の長、などとふんぞり返ってみたところで、「地球の目線」で見れば、人類など虫けらと大して区別がつかない、ちっぽけな生命体であろう。なまじ賢しらなぶん、却って惨めかも知れないぞ・・・。硫化水素や高密度の二酸化炭素など、地球にしてみれば離乳食みたいなものである。こうしたものが増えたところで困るのは人間であって、地球ではないのだ。
 ペテン師は地球を当て馬にして糊口をしのぐな、と言いたい。

 ところで、堆肥を発酵させる或る微生物の寿命は十五秒。その十五秒のあいだに飯を食らい、糞をして、子孫を残すと死ぬ。
だが、おどろくには当たるまい。四十六億年という地球の寿命を尺度に用いたら、人間の寿命だって、かかる微生物のそれと大差があるとは思えない。
 さすれば歴史とはなんだろう?国家とはなんだろう?といった、アナーキーで虚しい疑問符も沸いてこないでもないが、あいにく私は思想面からと言うより、「生死を超えて」生きようという執念を感じさせる七生報国という言葉が好きであり、また、この人生限りで、お釈迦さまのように涅槃へ解脱する気もないので、これ以上難しいことは考えない。

 せめて、他人と自分に対して誠実でありたいと願う人間は、
  「自分たちが住みよい環境を維持しよう」
 と素直に自己主張するべきだろう。


 さて、私が訴えている環境運動だが、実は"国家主義"の延長線上に位置付けられて然るべきもの、と自負している。偏狭な「右翼思想」と誤解されてもいけないので解説しておくが、これは古来、集落ごとに鎮守の神を祠にまつり、御座所の森を敬ってきた農耕の民・日本民族の特性を意識的に洗練し、成熟させていこうという考え方だ。ピンと来ない人は、アーノルド・トインビー博士の著作でも読んでくれ。いずれにしても、ここで言う「神道」とは、近代の日本に政治システムとして取り入れられた国家神道のことではなく、理屈抜きの感謝に支えられた土俗の森林信仰、そして共生の知恵である。現在の世界は、こうした日本人の性質を、いよいよ歓迎せざるを得ない状況になっているのは周知の通りだ。ただし、単体のNPOやボランティア団体がおのおの局地的な活動を展開していたのでは、とても砂漠化のスピードに追いつかない。ここで、"国家主義の復活"が欠かせなくなるのだ。厳密に言えば、かつて八千万の日本人を戦争へ駆り立てた「国家主義」のひな型を一旦白紙に戻し、今度は"恒久的な建設事業"の素材を盛り込んで応用するわけである。戦時下では「軍部」が担った役割を、高度経済成長期には「企業」が請け負い、挙国一致で産業振興に邁進した実績が、国家主義の転用が軍国主義のみに限定されるわけではないことを誰もが納得してくれるだろう。ちなみに"単体のNPOやボランティア団体"というのは、どこも独自のノウハウや人脈を持っているものだ。国家はこうした点を重視し、全体の連携をコーディネイトする作業に徹すれば、必要以上の役人を雇う必要も無く、各団体の士気や活力が損なわれることも無く、効率の良い体制を構築することになるだろう。これがいわゆる、「歴史の反省」なのである。
 もちろん、現時点のプランは荒削りであり、今後さらに手直ししなければならないことは弁えているつもりだが、落ちぶれ続ける日本の姿を見るにつけ、あまり悠長なことも言っていられない気がする。

 無責任なようだが、私は異郷の僻地でユンボやペイローダーに乗るのが好きであり、誰も価値を認めないような荒地に「バビロンの空中庭園」みたいな木々の多い茂る構造物を自らの手で建てるのが夢であり、したがって、これら一連のプランの立案も、偉い人が「よし、やってみろ」と採用してくれたら、さっさと現場へ出て行きたい一心で練っている。管理職のしんどさは身に染みているので、「仲間」は一人でも多くほしいが、まかり間違っても自ら大将となるために「子分」を募ろうなどとは考えない。
  そこいらへんの事情は、汲み取っておくんなさいやしよ。


 本稿では詳細について触れないが、たとえばインドシナからモンゴルに至るグリーンベルト構想は、支那大陸に繁栄を齎すとか、日中友好事業云々とかいったテーマはあくまでも二次的なものであり、まずは新しい概念に基づく国威の発揚、失業問題の解消、景気の回復を目標とし、そして偏西風によって、日本列島が常に清浄な空気に包まれる将来を目的としている。
 言うまでもないが、新しくできた緑地の影響によって耕作可能となった元の砂漠で、貧しい支那人が百姓仕事をしたければ、やってもらって構わない。これで十分現下のODA以上に中身のある「国際貢献」となるだろう。
 ついでだから、アンチ・チャイナの思想に凝り固まった人々に言っておく。実際に大陸を歩いてみると、桁違いの広がりを前に、とても日本で動員できる人数では歯が立たない、と実感できるだろう。旧来のODA同様、資金を大陸へ投じる前提が残ったとしても、国内の失業者がいなくなった時点で、人民解放軍を師団単位で解散させ(あるいは部隊ごとそっくりチャーターし)、その人員を日本国が作業員として雇い入れ、給与の面倒を見るというのであれば、東アジアにおける軍縮推進という見地から、納得できるはずだ。
 良い鉄と人は軍隊に行かない・・・武士道を建前とする日本の軍隊(自衛隊は職業倫理)と違って、歴史的に支那の軍隊は貧困階級の出身者と駄目人間の寄り合い所帯だ。ようするに、まともな公司では雇ってもらえないロウクラスの連中だが、業務を単純作業にとどめればそれなりに役に立つだろうし、また、頭数の割に人件費も安く抑えることができるに違いない。





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