サラ ケオ クウ
あるいはルアン・プー主義との邂逅





 タイ北東部の北辺、メコン川の対岸にラオスを望むノンカイの町外れに、「ワットケーク(客人/インド人の寺)」と呼ばれる、風変わりな宗教的テーマパークがある。
 正式には、ラオス側にある同じようなワット・シェンクアン(ブッダ・パーク)と総称して、「サラ ケオ クウ」という。
 初めてここを訪れた時、私には、かくべつ予備知識があったわけではない。『地球の歩き方・タイ編』に「ワット・ケーク」という呼称を見つけたのは、ずいぶん後の話だし、建立者である導師ルアン・プーの存在に至っては、日本に引き上げてから人様のホームページで知ったほどである。
 つまり、私がこの得体の知れない宗教的施設と出会った経緯は、ほんの成り行きに過ぎなかった。



96年当時のノンカイ駅
(珍しく静かな日に撮影したものらしい)




 タイのバブル経済が、ジョージ・ソロスの陰謀によって、劇的に崩壊する一年くらい前のことだった。
 メコン川と並行するように配置されたノンカイ駅は、朝から晩までのべつ貨物列車が発着し、ガイヤーンの香ばしい煙が立ち込め、物売りの声と雑踏が錯綜し、客待ちのトゥクトゥク、モトサイが常に七、八十台たむろし、ラオスからやって来たばかりのうぶな連中が、狡いタイ人に早速騙されて金切り声を張り上げ、とにかく殷賑だった。
 そんな駅頭を正面におさめるメコン・リバーサイド・ホテルを根城に、私はひねもす口入稼業のアルバイトに従事していた。バンコクのマンパワー組織のボスから委託された仕事で、職を探してタイへ潜り込んだラオス人を選別し、首都のビル・メンテナンス企業へ送り込むのだ。
 バンコクの清掃会社にしてみれば、タイ国籍のスタッフを雇うと、最低賃金法に基づき、一人あたり月額2,500バーツの給与を保証しなければならない。ところが、ラオス人の不法就労者であれば、普段着兼用の作業着と、飯と寝床を与え、実質1,000バーツの小遣いをやっておけば御の字で働くらしい。
 3K仕事を内心さげすみつつも、パキやバングラ、イランあたりから来た不法就労者に実入りのよい仕事をまわしてやっている日本人など、タイ人のブルジョワが行っている搾取と比べたら、善良そのものであろう。
 いずれにしても、日本人が窓口なら相手も信用する、と、エージェントは太鼓判を押していたが、とても堅気の日本人が手を染めるようなシノギではなかった。

 仕事とは言っても、ほとんど遊んでいるようなものだ。
 午前中にアレックス・ヘンリーの小説に出てきそうなキャラクター(奴隷商人)を演じると、夕方にバンコクへ出発する汽車の切符を、送り出す人数分だけ買い揃え、午後はトゥクトゥクの雲助たちと暢気な与太話に興じているような毎日だった。
 「しかし、なんとも救いようがないシケた田舎町だな。え?どこか気の利いた観光スポットはないもんかね」
 ある日、私は毒舌を交えて切り出した。
 「若いデック(コドモ)*ばかりを揃えた置屋に案内しようか」
 馬鹿のひとりが組み合わせた両手をパコパコ鳴らし、ストレートに言った。
 「おれは韓国野郎じゃないぜ。腹の底が見えた雌鳥*に食欲などわくものか」
 日本列島は、すっかりノニルフェノール(環境ホルモン)に汚染されている。かてて加えて、北東アジアから東南アジアへ繰り出す買春ツアーの主役が、日本人から南鮮人に譲り渡されて久しいことも、およそ屈託の二字に縁がなく、肉体的に健康なラオタイ(北東タイ人に対する差別的呼称)どもはまるで理解していなかった。
 「それなら、美しい寺があるよ」
 別の一人が、がらりと趣向を変えた提案を持ち出した。

* ある種の女をさす業界スラング。本当の子供や鶏ではない。

 タイ人に限らず、発展途上国の田舎者は、天の高さも知らない井の中の蛙ばかり。知性の乏しさを埋め合わせて余りある手前味噌が際限なく暴走し、とどのつまり異邦人にとってはちっとも有難くない無価値な代物を、誇らしげに見せたがる。アユタヤの、焼け爛れた惨めな廃墟を世界遺産に登録せしめたのは、詐術に長けたタイ民族の外交的勝利と断言していいかも知れない。
 ・・・どうせ、ロクなもんじゃあるめえ。
 辛いクロンティップを無気力に吸いながら、私は提案者本人が運転するトゥクトゥクに揺られていた。町を離れて五分ばかり。あたりは鬱蒼としたインドシナのジャングルだ。おもむろに、整備された幹線道路から右折して、平凡な農道へ分け入っていく。
 「あれだよ」
 人懐っこい雲助が振り返って白い歯を見せて、十一時の方向を指差す。火炎樹やローリーの樹冠から、ニョキッと顔を突き出す巨大な仏像が、意味不明の微笑をたたえて来訪者を出迎えている。
 「なっ、なんじゃあ!」
 面食らって、思わず仰け反った。ただでさえ異様な風体の仏像は、おまけに滅法でかかった。有に四階建てのビルくらいの高さはあろうか。ひるむ私におかまいなしに、トゥクトゥクは、ラテライトが剥き出しになった駐車場へ転がり込み、赤い砂塵を巻き上げた。
 しばし、静寂。後日判ったのだが、いつもなら、幾つものグループがガヤガヤ賑やかに参拝しているのに、私が初めて訪れた午後は、他に人影が見当たらなかった。
 「さあ、入ろう」
 普通、チャーターされた運転手は、お客の用事が済むまで駐車場に控えているものだ。ところが、この愛すべき雲助ときたら、私からちゃっかり二十バーツをせしめ、入場券を二枚買っていた。



 決して狭くはない庭園だが、焼きレンガとコンクリートで塑像された怪しげな人型オブジェが、所狭しと林立している。ばかばかしく大きなものから、草木に埋もれた小さなもの、半分破壊されたようなものもあった。とどのつまり、何を訴えたいのか、さっぱりわからない。私に自分の入場料まで払わせておいて、雲助はガイドを買って出るわけでもなく、お気に入りとおぼしき「陰徳蛇体娘」の前にかしずき、真面目くさった横顔で合掌をささげている。
 あほらしくて、インネンをつける気にもならなかった。
 「悪夢だ」
 どの像も生ぐさい微笑が共通している。やたらと目に付くドネーション・ボックスが世俗臭の隠し味になっているかも知れない。妙な喩え方をすると、つまらないジョークを飛ばして笑いを強いるヤクザ屋さんのような、慣れない者には対応を持て余すような微笑だった。不気味である。気温は摂氏三十数度、湿度も高いはずなのに、汗がまるで出てこない。足を踏み入れてはいけない禁断の領域に迷い込んでしまったような戸惑いがしばらく続いたが、やがて、沸々とこみ上げる好事家精神が、一切の不安と遠慮を押しのけはじめた。
 「これはひどい。ええ!ひどすぎるぞ」
 私の口をついて出たのは、最大級の誉め言葉だった。奥のほうには、仏像でもなければ、ヒンドゥーの神でもない、どう見てもただの人間としか思えないセメントの男女が、子供時代から青年期、老年期と連れ添って、しまいに骸骨に落着する人生ストーリーが展開されていたり、「浮気をして、これを諌める妻を、愛人と結託していじめてはいけない」だの、「公務員は王様に忠義を誓い、賄賂を受け取らず、真面目に勤務しなければならない」だの、回りくどい美徳の講釈が、冗談みたいなセメント像におのおの添えられている。イタリア人のボルマッツォを連想しつつ、しかし、見れば見るほどインチキくさく、俗っぽい庭園に魅了されてしまう。苑全体に自縛霊のような作り手の信念が、高圧的に漂っているのは確かだった。
 すばらしい・・・私は心地よく、圧倒された。
 雲助は簡潔に説明した。
 「インドシナ戦争の戦没者に対する功徳だよ」
 「なんとも珍しい供養だな」
 このような庭園を造成するには、まず資金、最低限フルーツカービングを難なくこなす器用さと、炎天下で長時間働く根気、そしておそるべき信仰の力に裏打ちされた澄んだ瞳が不可欠だ。大真面目に作られたものだからこそ、私は笑えるのだ。はじめから受けを狙ったポンチ企画なら、そうした不信心はオブジェの端々に索然とあらわれ、興ざめしてしまったことだろう。
 「いったい、誰がこんなものを作ったんだろう?」
 「知らない。たぶん、ランサーン王朝の王族の末裔だと思う」
 土地っ子を名乗る雲助だったが、今思うと、ずいぶんいい加減なことを言っていた。
 ここは仏教と梵教の伝承に取材した、悟りの庭園なのだという。オブジェのほほえみは、訪れる者に道を説く慈悲の心・・・らしい。




婚礼の日、ブタの丸焼き(左)を振舞う陳松坡(右)



 世に言う通貨危機。バーツが崩壊しても、私はまだ「ワットケーク」という通称を知らなかった。ノンカイの雲助から教わった通り、律儀に「サラ ケオ クウ」と正式名称で呼び、バンコクのタイ人から、しきりにクエスチョンマークを飛ばさせていた。後日判ったことだが、ワットケークはバンコク人から得体の知れないカルト教団のサティアンと目されているらしく、撮って来た写真を見せても思い切り眉間にシワを寄せ、「きたない物」を値踏みするような顔をされてしまう。つまり、我々異邦人は、よしいかに気に入ったとしても、普通のタイ人の前では、隠れファンに徹しておいたほうが無難なようだ。

 さて、そんなある日、兄弟分の台湾人・陳松坡が、ラオス華僑の女性を嫁さんにもらうことになった。結婚式をやるので、ビエンチャンまで来て欲しい、と、バンコクのマンションに案内状が届いた。
 新婦にしてみれば地元。彼女のもとには広東語を話す親戚や友人が大勢祝いに押しかけたが、我らが新郎陳さんは天涯孤独の身の上である。バンコクでともに群れをなしているアメリカ人やスイス人にも声をかけたそうだが、果たして毛唐連中ときたら、ブタ箱に入っていたり、金がなくて逗留先のカンボジアから出国できずにいたり、とにかく誰も身動きが取れず、式の当日までにビエンチャンへ辿り着いた「陳ファミリーの列席者」は、よりによって、日本鬼子の私ひとりきりだった。
 式の翌日、不幸なのか、幸福なのか、よくわからない新郎だったが、とりあえず嬉しかったと見えて、新婚二日目の新妻をガイドに仕立て、私をビエンチャン観光に連れ出してくれた。



 ビエンチャンの町からメコンに沿って東へ向かい、カンガルー橋のイミグレーションを通り過ぎ、ビア・ラオの工場前も素通りし、さらに数十分走った。そして着いたのが、対岸で見た「サラケオ クウ」と同じ作者がこしらえた代物と同じ意匠の”フリークスの群像”だった。もっともラオス版は、こじんまりしていて、煤けた風情から類推すると、制作年代はやや古い。単に”面白系観光スポット”としか認識していないシナ人夫婦は、揃ってその名称を知らなかったが、これがいわゆる「ワット・シェンクアン」、通称「ブッダ・パーク」だった。
 門前に、いきなり三つ首の象の像。建立者はランサーン王朝の王族の末裔、というノンカイの雲助がまことしやかに語って聞かせたデタラメが、俄然、説得力を帯びてきた(単なる錯覚)。回廊は未舗装、あきらかに共産主義による宗教文化(?)の停滞を感じさせたけれど、苔むしたオブジェ群は不思議とすんなり周囲の森や川岸の景色に溶け込んでいる。最大級オブジェの釈迦入滅(涅槃)像は微笑みも自然で、荒削りながら、完成度は低くない、と感じられた。ここよりも新しいワットケークは、総じて人工的なのである。
 狭い敷地だが、タイ側にはない、お椀を伏せたような、巨大な半球状の構造物もあった。中に入ると三階建て。巻貝の貝殻のように狭い通路が外周にめぐらされ、覗き窓から、それぞれ階の中心に設けられた世界をうかがうことができる。地獄、人間界、そして極楽浄土と、上に行くほどレベルアップするらしい。とは言うものの、すこぶる埃っぽい極楽浄土の住人たちは、全員下半身が蛇になっていた。日本なら浅草の見世物小屋に売り飛ばされてしまいそうな畸形だが、なるほど、こいつはヒンドゥーのナーガ信仰あたりが影響を及ぼしているのかも知れない。フランスから観光にきていた大学生も、同じコメントを述べていた(ちなみにこいつ、ドルマンセ君という、サドの『閨房哲学』に主役として登場する悪者と同じ名前だったので、きょとんとする本人やシナ人夫婦を尻目に、私は一人、そのパスポートを見ながら大笑いした)。




 日本に引き上げたあと、私はメコン川を挟んで対を成す変てこな庭園に、強く惹かれるようになっていた。建造者が、ルアン・プーという、つい近年まで健在だった新興宗教の教祖であり、無償で造営作業に従事しているのは、彼の熱烈な信奉者たちであることも、帰国後に知った。タイにいた時は、如何に暢気に振舞っていても、心理的には日々生きるのに必死だった。だから気まぐれな旅行者のように、巡り会った至宝についてこまめに勉強する精神的ゆとりがなかったのだ。・・・笑止千万。発展途上国の田舎者を視野狭窄と嘲る資格など、こんな自分にあるものか。私自身も、天の高さを知らない井の中の蛙(さしずめ、外来種か)に他ならなかったのである。

 そして、しばしば、ワットケークの夢を見るようになった。
 個人的にはラオスのほうが好きなのだが、いつも夢に出てくるのは、決まって回廊がコンクリートで舗装されたタイ側のサラ ケオ クウである。
 たまに、見慣れない、あるいは記憶にない無責任なオブジェも混ざっていたりするが、オリジナルだってまともじゃない。どんな像が並んでいるかは、この際、どうでもよろしい。いずれにしても、場内は初めて訪れた時のように、自分以外に誰もいない。
 はじめは貸切と喜び、好き放題に園内を闊歩しているが、やがて喉が渇き、出口を見失っていることに気づく。
 あおぎ見れば、空は翡翠色をとき流したような薄曇り。空気は腫れぼったく、弛緩しきっているが、張り詰めた緊張感にせかされて、物言わぬオブジェの森を彷徨い続ける。
 「おれは、きちがいだぁ!きちがいなんだぞぉ!胸糞わるい神さまめっ!」。
 挑発的な涜聖の言葉を吐き散らすが、誰もあらわれないし、出口はあくまでも見つからない・・・
 文字通りの悪夢だが、なぜか、不安はみじんも感じていない。四角四面の理性はなりを潜め、原始の本能が闊達に解放されていく。むしろ、ずっとここで、こうしていたいような、殉教の甘美に酔っているのである。

 畢竟、今日にいたるまで、ワットケークとブッダパークの意義は理解できていない。それでも私は、現出したルアン・プーの想念の産物を、「麗しの悪夢の苑」と、いつしか自分なりに定義づけるようになっている。


続編につづく....



現在のノンカイ駅



もどる

ルアン・プーをクリック!






[PR]動画