ウランバートル逍遥(後編)


Mongolia



ウランバートル逍遥 (後編)



モンゴリアンヴァイオレンス


 かつては他の社会主義国同様、”犯罪と無縁の首都”と言われたウランバートルだが、市場経済が導入されてから、犯罪はてきめんに増加している。物取りを目的とした強盗、殺人事件が頻発し、掏りやひったくりは日常茶飯事だ。市場を歩けば昼間から酔漢にからまれ、ぶん殴られる。観光に来て被害に遭う悲惨な日本人も少なくない。よくよく注意した上で、あとは怖い物見たさの成せる業(?)、この国の”悪の世界”を覗き見してみることにした。
 どこの国を訪れても、私は闇両替を利用する。銀行や街の両替商よりレートが良いからである。もちろん、ホテルのキャッシャーなどは論外だ。ところがウランバートルでは、映画館の駐車場に札束を持った若い衆が大勢うろついており、あまりにもあけっぴろげ、しかもレートは誰に訊いてもホテルと殆ど変わらない。いい加減にばかばかしくなり、思わずモンゴル裏社会の底の浅さを嘆いた。
 さて、人口に比例して、数はそれほど多くないけれど、モンゴルは盗難車のマーケットでもある。日本で盗まれた中古車は横浜から天津へ送り込まれ、賄賂を払って貨物列車に載せられると、そのまま国境を越えてモンゴルにはいっ来る。だが、もっと凄いのは、ヨーロッパで調達された車の運搬方法だ。乗用車の場合、ロシアンマフィアがふたり一組で乗り込み、欧州のナンバープレートをつけたまま自分たちで運転してシベリアを横断して来るらしい。彼らは通常、最低でも5〜6台のグループで搬送の旅をする。自衛のためだ。聞くところによると、イルクーツクの郊外には、こうしてやって来た連中を停め、殺し、車を奪う専門的な組織がいくつもあるという。いかにも荒っぽい遣り口である。ただ、最近では、モンゴル警察もインターポールからけしかけられる格好で、盗難車の摘発に乗り出し、ウランバートルの自動車の修理工場は、扱う車のエンジン番号をきちんと確認してお上に報告するよう義務づけられている。もし、ここで手配の車が見つかれば、事情を知らずに買ったオーナーも、とことん調べられ、車を没収されてしまうので、買い手もだいぶ慎重になっているという。目下、アングラ世界でこの商売は斜陽産業に位置付けられているかも知れない。
 発展途上国の後ろ暗いビジネスと言えば、不法就労者を送り出すマンパワーは定番である。今回思わず大笑いしてしまったのは、そんなエージェント達が国営テレビで、”3,500US$で日本、乃至ドイツの査証をご用意します”などと、おおっぴらに宣伝していることだった。これほど珍奇な番組は、あのパキスタンやバングラデシュでもお目に掛かれない。手数料は韓国行きが一番高額で、4,500US$とのことだった。こちらも面白い、というか、きわめて例外的な相場である。金額は各国にばらつきがあるけれど、普通は日本のほうが韓国より50%くらい高いものである。やはりここでも韓国のほうが日本より上位だった。ただ、市場経済がはじまったモンゴル社会には、働くのは韓国で日本は留学先、という通念が出来上がっているらしい。わが国にやって来るモンゴル青年が良質な人たちなのは喜ばしい限りである。



ダバンバダルジャーの日本人納骨堂

  ”今日も暮れゆく異国の丘に・・・”。夕方訪れたダバンバダルジャーの日本人納骨堂は、この歌詞を地でいくような景観に沈んでいた。近くに山さえあれば、たとえ曇天であってもモンゴルで方角を見失うことはない。樹木が育っている斜面は南側、禿げているほうが北側だからだ。シベリアから吹きつけてくる冬場の風は、畢竟、北の斜面に樹木を育てないのである。ところが納骨堂は、南に面していながら、どこにも樹木が見当たらない、寒々しい斜面にあった。
 ちょっとやそっとの植栽を施しても、付近に放牧されている牛が稚木の葉っぱを食べ尽くしてしまうのだという。
 ちょうど横河建設設計事務所と大林組が改修工事をおこなっていて(工期:平成13年5月15日〜10月15日)、遺骨は一時的に工事エリア事務所に移されていたが、四角いお堂を魂魄に見立てて合掌した。
 平成11年7月、時の小渕首相の墓参に先立ち、何者かがお堂に投石し、ガラス部分が割られるという事件が起きている。快く思われていないのだ。仄聞だが、落成式典のとき、主催者はモンゴル人関係者を来賓に招かず、日の丸の旗だけで儀式を執り行った。立場を変えて傍観してみれば、「かつてハルハ川を侵した異教徒(?)がやって来て、ごそごそ建てた”へんなもの”」である。政治的意図以前に、薄気味悪さをおぼえてしまうに違いない。もしこの話が本当だとすると、日頃の墓守をお願いすべき現地人を立てようとしなかった主催者は、たいへんなヘマをやらかしたことになる。
 街中には”ソウル通り”があるのだから、雄大な景観の郊外に”日本通り”があってもわるくない。舗装工事を控えた山道を降りながら、寂しい場所だからこそ、この地を、次の時代の日蒙交流を促進する発信基地にできないものか、と思わずにはいられなかった。また、ひょっとしたら何処かの有徳の士が何か素晴らしい計画を温めているのではない、と推測し日本大使館を訪ねてみたが、こちらでは案件について何も把握していず、厚生労働省に問い合わせてください、と告げられただけだった。

 * ちなみに植林マニアの私としては、日本人納骨堂の周辺に石灯籠でも配し、夜の灯りを地域に提供するとともに、組織的な植栽プランを思い立ったが、「岐阜さくらの会」という団体が国会議事堂の裏手に平成11年、桜の苗木を植えているものの、さすがに樺太と同じ緯度とあって、お世辞にもよく育っているようには見受けられなかった。・・・さて、どんな樹木を植えたら宜しかろう?



”日蒙友好”への所見
 

 ウランバートルの一部住民を除いて、モンゴル人は無愛想である。しかし某「微笑みの国」で、さんざん騙されてきた私には、むしろこういう飾り気のない「仏頂面の国」が新鮮であり、妙な誠意すら感じてしまう。基本的に、モンゴルの人びとは、我々日本人に好意的である。ただ、忘れてならないのは、「歴史・文化認識」の差が生み出した相互不信の問題である。
 まず、いくら盲目的な国粋主義者であっても、”ノモンハン事件の戦略的まずさ”を認めない日本人はいないであろう。また、遊牧民の世界観を理解していれば、よしんば鉄砲を担いだモンゴル兵がハルハ川にやって来て愛馬に水を呑ませたからといって、これを即座に「国境侵犯」と解釈することもないはずである。
 こうした”反省”に立脚して、モンゴルの側を眺めてみたい。
 コメコン時代、ロシア人は自らの民族的トラウマと言うべき”タタールの頚城”を象徴しているチンギスハーンや大元国を、若いモンゴル人が知ることを歓迎しなかった。誇りを取り戻されたら、やりにくいことこの上ない。紙幣にモンゴル帝国のVIPが現れたり、その名を冠したタバコやウオッカが現れたのは、ごく最近の話である。従って、東ドイツ人から土木機械の扱い方やハム、ソーセージの作り方を習って育った世代のモンゴル人は、多くが800年前に、われわれ日本人が「元寇」と呼んでいる事件、すなわち自ら仕掛けた侵略戦争があったこと自体を知らないのである(中には手前らでやらせておいてツベリンさんのように、”日本へ攻めていったのは高麗兵だ、われわれじゃない!”と逃げを打つ人もあるが・・・)。そのくせ「ハルハ川における日本の侵略行為」は、記憶に新しい上、ソ連人が徹頭徹尾悪意をこめて宣伝したものだから、日本人へのなまなましい猜疑心として定着してしまっている。
 政治的プロパガンダも相まって、長い時間をかけて熟成された食い違いを解消するのは容易な道程ではないだろうが、われわれ日本人は、根気良く腰を据えて誤解を説くべく対話と実践を積み重ねるよう努めたいものである。

 (了)

モンゴルで書いたメモ↓



元モンゴル駐日大使
ドルジンツレン博士のこと

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