ウランバートル逍遥(前編)

Mongolia


ウランバートル逍遥(前編)


スヘバートル像



モンゴル国

 この夏(註 平成13年)、ひょんな経緯からモンゴルを訪れることになった。モンゴルとは、申すまでもなく、アジア地図の天辺に横たわる草原の国だ。そこでは昔ながらの民族衣装に身を包んだ遊牧民が、ゲルと呼ばれる丸いテントに住み、先進国と呼ばれる国々の時間の概念と大きくかけ離れた生活を営んでいる。私にとってはブータンや北朝鮮とともにアジアの白地図に残されている数少ない未踏国のひとつだった。しかし、殖やしすぎた家畜と異常な寒波がもたらした雪害の報道もまだ記憶に新しく、おまけに今年のNHKは、永田町や霞ヶ関の啓蒙を試みるかのように、大河ドラマのテーマに元寇を取り上げている。関西新空港から首都・ウランバートルまでの飛行時間はほぼ4時間。バンコクよりも幾らか近い。

 こんな安直な認識が、あらゆる油断に繋がった。いよいよ出国する段階になって、『地球の歩き方』のシリーズ中もっとも薄いモンゴル編をめくりながら、私はこれから訪れようとしている国について、恐竜の化石が出る、ということ以外、活きた情報の持ち合わせがほとんどないことに気がついた。

 面積156万6,500km2、人口は238万2,500人。日本のほぼ4倍の国土に、茨城県民と同程度の人数が暮らしているに過ぎない。人口密度はすこぶる希薄である。寒冷性ステップに属し、緯度は北海道や南樺太とだいたい同じ。一年の半分以上が冬、気温は最も寒い季節だとマイナス50℃を下回る。

 近代モンゴルの歴史は、辛亥革命によって清朝の版図から独立した時点で開闢している。 旧コメコン加盟国。アジアで唯一ソ連の友邦という立場を明確に打ち出していたモンゴル人民共和国だが、ソ連崩壊を受けて、90年から市場経済を導入され、国号から”人民共和”の四字が抜け落ちた。あたらしい国名は「モンゴル国(Mongolia)」とシンプルになった。”赤い英雄”という意を成す首都のウランバートル市は、立法行政の中枢・スヘバートル広場を核に、南辺を縁取るトーラ川や、これに併行して東西にのびる数本の目抜き通りを軸線にして形成している。

 

ウランバートル

 深夜の空港から市中へ向かう真っ暗闇の一本道で、いきなり路肩にぼんやり浮かび上がった白いゲルを見た。
 さりげなくも雄弁な土地の風物が、こうして首都やその郊外にも点在しているところが、初めての旅行者には嬉しい。ちなみに支那人はモンゴル人が暮らしているこの伝統的なテントが、自分たちのパン(面包)に形状を通じていることから”パオ(包)”と呼んでいて、NHKのドキュメンタリーでもそれに倣っているケースが多いけれど、オリジナルのモンゴルでは「ゲル」という。
 ウランバートルとは、”赤い英雄”という意味だ。標高1,351m。人口約70万人。周囲を丘に囲まれた首都は、トゥブ県の真ん中にあるが行政上はこれに属さない特別市である。ちょうどセランゴール州とクアラルンプールの関係みたいなものだ。
 ただし、空気はすこぶる乾燥していて、夏であるにもかかわらず、多汗症の私には過ごし易い街だった。
 ソ連の地方都市 ___ 平べったい高層アパートが高い密度で扇状に林立する首都の街並みには、まず、そんな印象を受けた。街の色調は灰色が基調になっていて、眠くなるほど淡い。ポプラやエゾマツの街路樹が寒々しい大通りでは、弛みきった電線を頼りに古ぼけたトロリーバスがのろのろと行き交う。モンゴル人はチベット仏教(ラマ教)を信仰しているが、社会主義の時代に国内の寺院はほとんどが破壊されている。ウランバートルには、国内で唯一、宗教弾圧を逃れたガンダン寺があり、辛うじてここが東洋であることをしのばせていた。
 この街を歩いて最初に戸惑ったのが、言語だった。かつて外蒙古と呼ばれ、やがてソ連の勢力圏に組み込まれたモンゴル国は、現在中共が支配している内蒙古と違って、あらゆる表記にキリル文字が使用されている(なお、内蒙古では古来の縦書きモンゴル文字が、漢字と併用されている)。ついロシア語と似たようなものだろう、と錯覚し、読んでみようと意気込むのだが、さっぱり意味が解せない。辛うじてタバコの銘柄になっている”ЧИНГС ХААН”が読めたのみであった。つまりはフランス語とベトナム語の関係と同じで、土地の言葉をわざわざ系統の異なる宗主国の文字で表しているだけなのだが、それが感覚的に馴染むまで、ずいぶん苦労させられたものである。
 もともとアジア人同士で英会話する習慣のない私だが、コミュニケーションのためには不愉快な時流に多少の譲歩も止むを得まい。さしあたり、イングリック(= 英語らしきもの・Enblish like)を繰り出す。ところが、街中を歩いている人にはなかなか言いたいことが伝わらなかった。結局、へこたれて立ち寄った餃子屋の小母さんと覚束ないシナ語で会話してほっとしたくらいだから、ひどい話しである。もっとも、ウランバートルは、シナやタイの地方のように、まったく外国語が通じない土地柄ではない。洒落たカフェやライブハウスでは、モンゴル人のくせに愛想の好いスタッフがかなり上手な英語を操っていたし、名刺を交換した年配のインテリゲンチャーは、ほぼ全員がロシア語の名人だった。
 逗留した分不相応なホテルは、街の中枢に立地し、ロケーションはすこぶる好かった。国会議事堂を北面に配したスフバートル広場は朝夕のお誂え向きな散歩コースになったし、せいぜい東京の八王子市規模の市域だから、何処へ行くにも不便がなかった。
 ”草原の革命”を実現させた「最初の7人」と称せられる左肩上がりの志士たちの中で、いちばん人気があるのはスヘバートルであろう。実際は軍略に長け、夭折した将軍なのだが、モンゴルの歴史教科書ではソ連のレーニンを懐柔して国家を勝利に導いた大英雄になっている。コメコン時代は、レーニンとの関係がもうすこし遜った書き方になっていたかも知れない。いずれにしても、この英雄の名を冠した広場は、中央にその騎上像が置かれ、あとは赤い国のお約束事、モスクワの赤の広場や北京の天安門広場と変わり映えしない配列で議事堂や政府機関の建物が四方をがっちり縁取っている。だが、そんな無機質な建造物群の中で、広場の南東に配置されたオペラ座と、西側でこれと向き合っているバレー劇場は、諸外国の観光客がいわくも知らず、真っ先にカメラを向けようとするほど洗練された出来映えだった。
 これら二棟は、日本人抑留者によって、建てられていた。
 大東亜戦争のあと、モンゴルには六千人の日本軍人、軍属が送り込まれている。草原の国にいささか不似合いな芸術の殿堂は、日本民族にとって文字通り悲劇の産物ではあるが、広場を訪れる者すべてが目を見張る完成度の高さに、民族の矜持が寂然とこみあげた。 

 ウランバートルのオペラ座
 



社会主義の残滓

 髪を金色に染めた若者の群れが歩道を闊歩していく。
 ウランバートルホテル前の公園に佇むレーニン像には、思いやりゆえ、目をそらして差し上げたくなるような孤城落日の風情があった。そう、ウランバートルには、今日もなお、ウラジーミル・イリイチの銅像があるのだ。本家の旧ソ連邦をはじめ、現在この革命家を政府機関の所在地に安置している国はないと思っていた。じっくり見上げると、眩いばかりの懐かしさをおぼえた。蛇足ながらつけ加えると、この大らかな国の国立図書館の前には、つい数年前までスターリン像が立っていたらしい。しかしこのグルジア人もついに撤去されると、土地の好事家に引き取られ、いまではその個人宅の庭先で赤軍を指揮しているらしい。
 さて、私が訪れた時期、モンゴル国は夏時間を採用していた。つまり日本との間に時差はなく、したがってウランバートルは南東の北京よりも1時間早く太陽が昇る、という奇妙なサイクルになっていた。ついでに言えば、北極圏に近い国の夏だから、日の出の時刻は日本とたいして変わらず、午後10時をまわってようやく夜になる。
  一日の時間がたっぷりあった。
 腹時計に従い夕食を摂ったが、まだまだ明るいので市域の南を縁取るように流れるトーラ川をわたり、ザイサントルゴイの丘にあるソ連風モニュメントを訪れた。直線的で劇画タッチな兵士の鷲鼻を睨みつけ、湾曲した長い階段を上り詰めると円形の壁をめぐらせる戦勝記念碑に辿り着いた。円の内側はタイルを貼り付けた一巻の歴史絵巻になっている。最初のパートでポーズを決めている禿親爺はレーニンだ。下手ウマ漫画風に時代が回転し、颯爽と馬に乗ったスヘバートルが現れる。なるほど、男前に描かれている。しかるのち、箱型の戦車が出てきて、モンゴル兵がソ連兵と一緒に、我が方の軍旗を踏みつける。ハルハ川戦争(ノモンハン事件)が、モンゴル人にとって、対日戦争の締め括りらしい。ナチスの旗は、そのあとに蹂躙されている。満州への侵攻はどうした?だが、そのくだりはシラを切り、あとはお約束事、ミルク缶を持った小母さんや、工場で働く名も無きプロレタリアート系人民をぞろぞろ並べ、さりげなく地場産業をアピールしつつ、「月刊・今日のソ連邦」で紹介されていたような善良なロシア人ファミリーをゲストに迎えつつ、みんなで社会主義を成功させよう!で、締め括る。かつては24時間燃え続けていた広場中央の社会主義建設の灯火は消えていた。
 案内してくれたバット氏(一時帰国中の日本留学生)はニヒルな面持で言った、
 「日本から来る先生たちは”ソ連が崩壊したいま、モンゴルをODAで助けているのは日本なのに、あの絵はなんだ!不愉快である”って怒りますがね、僕は、これはこれでいいと思います」 
 人間はネガティブな真実を撞かれると逆上するし、依怙地にもなる。しかし因循姑息に捏造された歴史が真摯な憤りを誘うことはない。ただ冷笑に附されるのみである。この記念碑がある限り、ウランバートル市民は歴史をわすれず、まかり間違っても社会主義を夢見る愚を繰り返したりしないであろう、というのがバット氏の意見の要訣である。
 旭日旗を踏まれている構図は、もちろん私だって面白いわけがかったが、むしろああやって他国を扱下ろさないと自国の面目が強調できない国家体制を哀れに思った。たしかにノモンハン事件は、こちらもやり過ぎた気がしないでもないが、ソ連ベッタリだったモンゴル人にもそれなりに責任を感じてもらわなければなるまい。それが健全な国家間の関係というものであろう。
 「素晴らしい教材かも知れませんな」
 嫌味たっぷりに私が言うと、元農牧大臣を父にもつバット青年は、懐かしそうに灯火の檀を覗き込み、少年のころ、よくここで警備兵の目を盗んでは、串に刺した羊肉を社会主義の聖なる炎で炙って食べた、と嬉しそうに告白した。





韓国

 東南アジアでは、よくもわるくも日本が一番目立つ国で、韓国は金満北東アジアの”おまけ国家”に位置付けられている。インドシナ半島の農村やブルーカラーの無知な連中の中には、威張り散らす韓国人へのうらみつらみを、お人好しの日本人に叩きつけて来るやつも少なからずいるものだ。ところがモンゴル人の東方観は、様相が異なる。モンゴル人にとって、最も身近な東アジアの国は韓国で、日本はその背後に控える韓国経済の保障人といった、あくまでも二次的な国家に据え置かれているらしい。街を見回してみると、なるほど韓国との経済的、文化的な結びつきがすぐわかる。老朽化が甚だしいソ連製のワゴン車・ウアズィは、車道の主役の座を、現代のエクセラに譲り渡しつつある。短い夏を謳歌する若い女性のファッションは明洞モード一色に塗りつぶされ、化粧のパターンも鐘路一街を闊歩している手合いと大差がない。流れるモンゴリアンポップスだって、ハングルの歌詞に挿し替えても違和感のない旋律である。目抜き通りの垢抜けたカフェも、アメリカかぶれが韓国流だった。おまけに、逗留するホテルのそばには、SEOUL STREETという名称の道路まである。
 地理的に近いばかりでなく、たとえばアシアナ航空が真冬でも定期便を就航させている点(ちなみに日本との直行便は、モンゴル航空が関西新空港とのあいだを夏季に限って運行する便だけである)や、高価なメイドインジャパンには手が出ないけれど、廉価で、しかもほどほどに品質のよい製品を提供し、トラブルが起きても日を置かずにソウルからメンテナンスエンジニアが直行便で飛んで来るメイドインコリアが重宝さるのは理に適っている。
 もっとも日本人にしたって、韓国人同様にモンゴル人から歓迎されている。その性質は、いやおうなく経済的繁栄への憧憬が前面にちらつく東南アジアのそれとは性質がやや異なり、もう少し根源的な、兄弟に寄せる親近感に似たようなものが感じられる。ただ、日本人として、モンゴル人と接する上でいくつか留意しておかなければならない微妙な点もあるが、これについては本稿の末尾でのべたいと思う。


 町で最大のデパート前には韓国車が展示されていた


郊外へ・・・

 今回のモンゴル行きは、鉱山を視察する業務が主目的だった。山へ案内してくれたのは、ツベリンさんという、日本語が達者な60年配のおやじさんだった。ツベリンさんは子供の頃、日本人抑留者から日本語の手ほどきをうけ、爾来、非凡な日本贔屓で社会主義モンゴルを生き抜いてきたという。そのくせ”元KGBの工作員”と噂されていたりして、よくわけのわからない御仁だった。ホテルのロビーで会うと、開口一番、バスの車中で携帯電話を掏りに盗られた、と嘆いていたほどだから、KGBにしてはいまひとつ頼りなかった。
 それでもウランバートルで最も格式が高いとされるウランバートルホテル(ちなみに司馬遼太郎はこのわかりやすい名称のホテルで「街道を行く・モンゴル紀行」を書いている)で食事をしながら歴史について語り合う。結論はすぐに出た。モンゴル人が日本を攻めれば嵐の海で全滅する。日本人がモンゴル征討を試みれば大草原で壊滅する。冷厳な歴史事実は、すなわち両国民がたがいに争ってはならないという天の意志を諭している。とにかくわるいのはみんなシナだ。戯言めいた見解があっけなく一致して外へ出ると、レーニン像の前で今ひとたび気焔をあげた。
 ウランバートルは、あたかも大海に浮かぶ孤島のような街だった。
 街を一歩出ると、さっそく蒼茫たる草原がひろがった。
 もっともこの辺りは、地平線がひろがるといった地形ではない。老年期を迎えた造山動がゆるやかな丘陵を織り成す北モンゴルの大地で、羊が草を食む。山羊は根こそぎ草を食べ、雪害の原因造りに余念がない。蒙古馬は小さくて不恰好だが、桁外れに頑健である。
 そして、たまに白いゲルを見かけた。いかにも人間がすくない。おそらくモンゴルのGNPには、日常の物々交換で貨幣代わりに使用されている莫大な家畜のことが計上されていないのではないか、と思った。あれだけたくさんの家畜を養っているゲルの住民というのは、考えてみると、たいへんな資産家揃いである。
 帰路、ボドノールという湖の辺で休憩した。
 付近のゲルで馬乳酒を頂いた。夏ならではの旬の味覚である。日本語では、”酒”と訳されているが、アルコールの度数は低く、むしろ酸っぱいプレーンヨーグルトに近い飲み物と考えていい。だからこの季節は、小さな子供や赤ん坊までもが、美味そうに”酒”を呷る。下戸の私も安心してちびちび啜った。
 「このあたりには昔、日本人抑留者の収容所があったんです」
 ゲルの奥さんに心づけを渡して外に出ると、ツベリンさんが言った、
 「野菜をね、作っていました」
  野菜を作っていたおかげで、ボドノールのラーゲリにいた約800人の抑留者のうち、亡くなった方はからくも8人にとどまったという。
 シベリアと同じく、全抑留者の一割強が死亡しているモンゴルだから、この生存率は驚異的であろう。ウランバートルの収容所でも大勢の日本人が亡くなった。食料の配給は肉ばかり食だったらしい。モンゴルの人たちは、コメの代わりに肉をたべる。ビタミンCの補給も、チーズや馬乳酒でまかなえるよう体質がすっかり調整されている。しかし日本人の生命維持にはやはり野菜が必要なのだ。苦しい抑留生活のなか、こんな牧草しか育たない痩せた土地で野菜を育てた先達には、ただただ脱帽するより他になかった。

首都近郊の草原
 



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