タカ派の平和主義



  適正規模、という言葉がある。トマス・マルサスだか誰だったか、このセオリーを編み出した学者の氏名と専攻はその算出方法とともに忘れてしまったけれど、ようするに当該社会にふさわしい人口を、食糧自給力や気象条件、国土面積などから割り出した数値のことである。これによると全地球上で生存が可能な人口は、しめて三億人程度に落着するらしい。この搦め手の予定調和説と称すべき学説が生まれた時代と現代の間には、もちろん生産力や社会通念の開きがあり、三億という窮屈な数字に普遍性ある説得力が見出されるわけではないけれど、何人たりとも、現下のどこを向いても逼塞している六十億人の世界が、ひとつの飽和点に達している実情だけは認めないわけにもいかないだろう。
 視点を本朝に絞ってみよう。倒産やリストラによる失業者、ホームレスの増加が慢性的な問題となって久しい昨今、目下の為政者がよしんば"痛みを伴う改革"なる大手術に成功しようと、さすがにバブル以前の景気の復旧までは望めまい。あるいは、日本国民のマジョリティが、ラッダイト運動のような集団的破壊活動に立ち上がらない限り、企業内の合理化はさらに進み、余剰就労人口の絶対数は弥増すばかりである。

 しかし私は小手先の政策改革ではなく、"原点回帰"を念頭にパラダイムの刷新を目論む者である。
 刹那的な衝動のみを先走らせて既存の産業制度への攻撃を煽動する気は毛頭ない。かくして現代日本人のはしくれは、せめて産業革命当時のイギリス人失業者が機械を壊した怨嗟のエネルギーを、建設的な発想の転換へ注ぎたいと願っている。
 したがって、「生存」を至上命題と置く本稿では、意図的に極端な言い回しを用いながら、自論の開陳を試みたい。

 率直に言って、現下の経済不況は戦争でも始めないことには打開できない瀬戸際まで追い詰められているのではないだろうか?・・・と、大真面目に思っている。

 だが、モノは考えようである。要は国家の音頭取りによって、物資が非生産的な姿で激しい消耗を見せれば、経済はあたかも戦時下と同じような状況に置かれ、自ずと回りだすのが理屈というものだ。

 そこで、「我田引水」となる。
 相手は20世紀に破壊された自然環境、これを如何なる出血(資金)を払ってでも19世紀末期と同じ状態に戻すための"戦争"をはじめればいいのではないだろうか?戦争はあくまでも国家目的の達成手段であり、目的そのものであってはならない。国家の軍隊に与えられた任務の本義は安全保障、すなわち「国民の生存圏の確保」である。
 これを敷衍すれば、異常気象の原因を排除し、自然環境を整備する活動も、災害時のそれと同様、軍隊、若しくはこれに準ずる組織が動員される必然性が認められるはずである。21世紀の人類が運営する国家では、陸海空の三軍とは別枠に「エンヴァイロメント・フォース」とでも呼ぶべき戦略単位を常設し、失業者の吸収(実質的な救済)を行いながら、軍隊的にシステム化された機動力を以って、砂漠の緑化や海の水質浄化など、いわゆる"儲からない仕事"を強行することが、重要な事業として浮上して来るに違いない。

 たとえば一輛四億円の戦車を作る代わりに二千万円の7インチ型ユンボやペイローダーを二十台製造し、4名の戦車兵の代わりに20人のオペレーターを養成する。鉄砲の代わりに鋤や鍬を鋳造して、ミサイルや弾丸を作る資材を淡水パイプラインなどの部品製造に転用する、と考えてもらってよい。こうして創出された"部隊"を、中国の砂漠の開墾地や焼畑で森林が失われた東南アジアの山間などの植栽現場へ集団で進駐させる。さしあたり、「近未来型屯田兵制度」をイメージして頂いても差し支えない。採算ベースで考えれば、もちろん砂漠などいくら開墾したって間尺に合うはずもないが、それは本土の防衛線を確保するために生産性の低い近隣諸国の領土を掠める戦争を仮定しても同じ非効率が指摘されるであろう。砂漠を緑地に変える"闘い"は、死傷者こそ大した数字になるまいが(不慮の事故の発生くらいは覚悟しなければなるまい)、「一大消耗戦」の様相を呈することは火を見るより明らかである。

 ところで、時々環境系NPOの人から「海外より、まずは国内のダイオキシン対策が先決でしょう?」と指摘されることがあるけれど、日本の国土は世界の陸地面積の0.6%を占めているに過ぎず、しかも周辺には世界屈指の身勝手な論理を振りかざす国家が幾つも稠密している。地勢もシベリアや東南アジアで発生した大気団が確実に上空を通過していくコースに横たわっている。近海を行き交う海流の種類も少なくない。つまり、日本国民が日々ゴミの分別に心を配ろうとも、一部のロシア人が老朽化した原子力潜水艦を輪切りにして日本海に投棄してしまえば、一億三千万の涙ぐましい努力は水泡に帰してしまうのだ。また、春先に黄砂が飛んで来る様子を見れば、中国がタクラマカン砂漠で行っている核実験を、輸入野菜に付着した農薬とは別次元の他人事と座視するわけにもいくまい。だからこそ、日本人が大挙して現地へ展開し、時と場合によっては相手国と強硬に談判する必要が出てくるのだ。大義名分を言い出せば、本物の軍隊を投入しなければ収まりがつかなくなるけれど、我らが環境軍の主張するところは理性的な生存権であり、実行可能な代替案の提言である。周辺諸国の大胆な環境整備は、当該国の民衆のためにもなるけれど、本質はまさしく日本の国土防衛なのだ。
 "日本環境軍"は、編成、人員数、どちらも通常の陸軍にならえばいい。
一万人くらいで一個師団をなし、それらが幾つか集まって軍を構成する。戦費に該当する予算は、現下の不透明なODAや対外援助に回されている国費をそっくり転用すればいい。北朝鮮に対して一兆四千億円もの援助が投入されるという耳を疑うような「噂」があるけれど、それほど桁外れな日本国民の血税がテポドンの製造費や喜び組の飼育費に使われたのではたまったものではない。しかし日本周辺地域の環境改善という大局的見地から千歩譲って、かの国の民衆が本当に飢えており、どうしても食糧支援が必要だと言うのなら、環境軍の部隊が朝鮮各地で炊き出しを行って直接配給すればよいのである。これなら素朴な交流を通じて、先方の対日イメージは改まるだろうし、"拉致事件"の事実すら知らされない朝鮮の民衆にとっても国際的な視野を広げる契機となろう。
 すなわち、よほどやましい背後関係でもない限り、かかる「人道主義」に反対意見を唱える人もいないはずである。
 シュミレーションを続けよう。かつて満州に展開していた関東軍八十万を、同数の環境軍で再現してみるのも興味深い試みとなるだろう。現在NPOなどが主催する植林ツアーで、手弁当の数十人が数日間手作業していく仕事を、機械化された八十万人が恒常的に実行したら、荒涼とした大地にどんな変化がもたらされるだろうか?さらに、北京政府に軍縮を迫り、解雇された人民解放軍兵士をひとまとめに中国環境軍として再編成し、共同作業に参加させるプランは如何だろうか?本来、ODA資金とは、このようなプロジェクトにこそ充てられるべきではないだろうか?財政難にある国家が巨大な軍事力を擁しているジレンマの背後には、軒並み切実な雇用対策という台所事情が見え隠れしているものだ。

 南方へ派遣する人員も、昔の日本軍と同じ員数を計上すれば、日本の巷間から失業者と呼ばれる人種はあっという間に消滅せざるを得なくなる。


 「平和主義」を社会の推進力に転換するには、通常の戦争の開戦に必要な瞬発力より数十倍のカロリーを消費する持久力が求められる。また"戦死者の不在"は、同時に英雄の不在を意味しているわけで、この環境戦争には旧弊な保守派人士が歓迎するような、名誉が一個人や一党派に帰属する華々しさもない。
 しかしながら、「今日の平穏が明日も続く」と信じて疑わず、戦後民主主義的平和主義を唱えて憚らない精神構造の人々には到底なしえないのが砂漠地帯や熱帯地方への進駐であろう。すくなくとも空から敵の爆撃機にやられる心配がないとは言え、補給物資の不足しがちな前線の宿命や過酷な自然環境は、戦陣の将兵ばかりでなく、作業部隊に対しても大きな試練をもたらすだろう。必死になればこそ、当事国政府との間に虚飾で彩られた友好関係が発生するはずもない。スタッフは連日、現地人とプロジェクトの総括から些細なカルチャーギャップに至るまで、激しい舌戦を繰り返しながら建設的な戦闘を遂行することになるはずだ。環境軍将兵に求められるのは強靭な「タカ派」の資質なのである。


 チャイナやコリアが我が国に抱く不快感には歴史や国際情勢への認識不足による理不尽な言いがかりが多々あるけれど、我々とて、少しでも誤解を払拭し、世界の公論を背景に彼らを啓蒙していく努力を払わずともよいという法はない。
 私は自身の乏しい体験から所見を披露するしかないが、中国人や韓国・朝鮮人が大日本帝国の幻影を殊更警戒するのは、そのタカ派ぶりゆえではなく、(自分たちにとって)理解不能な行動様式や思考パターンにあるのではないかと感じている。
 一例をあげれば、モンゴル人や満州人も漢族にとっては明瞭な侵略者であり、虐殺者であったはずだが、果たして元も清も中国の歴史に立派な王朝として金字塔を打ち立てている。にもかかわらず、日本人だけは今日もなお「リーベンクイツー(日本鬼子)」である。あれこれ考えてみたが、少数民族を率いるフビライや李自成は、漢族の兵士を大量に雇い入れて中国本土を攻略し、自ら中国の君主に納まっている。これに対して、"潔癖すぎる"日本人は、日本民族だけで編成された軍隊を以って中国に攻め込み、あまつさえ日本国天皇が東京から北京へ遷都して中国皇帝に即位する気配も示さない。中華思想の信奉者にしてみれば、さだめし日本人は侵略の作法(中国を掠めたら本拠を移し、漢族と同化する)を弁えない、不誠実なエイリアンと映ったに違いない。

 周辺諸国の反日感情を鵜呑みにして、ひたすら鸚鵡返しに終始していた左翼には慰めるべき言葉もないが、一方、大陸から聞こえる罵詈雑言に同次元の反駁を試みるばかりで、分析を怠り、何ら有益な提言を切り出せなかった保守・民族主義者にも、知的怠惰の責任が問われて来るかも知れない。だが、いまは面子に拘っている時局ではない。「21世紀の支那事変」は、中国人に銃口を向けるのではなく、辛抱強い説得と技術に裏付けられた実践を武器として、着実に相手国民を同志の輪へ取りこむ「勝利」ために進めなければならない。少なくとも、相手にも尋常ならざるナショナリズムがある以上、円卓や出版の議論だけで歴史認識の温度差が改まるはずもなく、困窮した国際経済も打開できないだろう。


 最後になるが、「平和」というのは、明治時代の言語学者が英語の「peace」を、中国語の「ホーピン(和平)」を参考に誂えた言葉だと聞いたことがある。さらにピースの語源はラテン語の「PAX」で、これは「強大な覇権の下にもたらされる秩序」と解釈するのが妥当らしい。つまり「平和主義」とは「反戦主義」より「安定した帝国主義」に近い観念と料簡することができる。さなきだに、「緑の帝国主義戦争」には、現代の国際世論が立派な大義名分を与えてくれており、近代史の舞台では心ならずもしばしば頓珍漢に振る舞い、毎度貧乏くじを引かされてきた"二千七百年の森の民"にとって、神道に象徴される自国文化を万邦に向け、胸を張って紹介する千載一遇のチャンスと弁えたい。

 京都議定書の批准を拒否しているアメリカに対しても、日本人が世界に先駆けて環境軍創立の実績を示せば、彼らをいたずらに孤立させず、こんな妥協案を示す余地が生じてくるかも知れない・・・

「雇用を犠牲にしてまで、二酸化炭素の排出を規制する必要はない。その代わり、御国も国内の失業者から"アメリカ環境軍"を編成し、ネバダあたりの砂漠に自分たちが撒いた二酸化炭素を分解する規模の植林を行いなさい。軍事顧問なら日本から派遣しましょう」


 ちなみに屈折した社会主義根性から健全な市民意識が徐々に芽生えつつあるモスクワでは、すでにエコロジー警察という機構が立ち上げられ、環境問題の啓蒙や景観保持のために活動をはじめているという。"誰からも難癖をつけられない新しい戦争の様式"、環境軍の創設は、必ずしも私ひとりの妄想ではなさそうである。






基本思想



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