「メナムの残照」考









原作の文庫本表紙
版元の角川書店と東南アジアで広く
事業展開している紀伊国屋書店が
共同で復刻した販売地域限定版。


 「メナムの残照/Khu Kham」

 本作品は女流作家トムヤンティが著し、現代タイのメディア界に不動の金字塔を打ち立てたメロドラマである。なにしろテレビドラマが放映された時は、時間になると街路から人影が消え、バンコクでは掏りやひったくり、強盗事件が激減し、チェンマイのナイトバザールの売り子たちも毛唐の客を店先に待たせたままテレビを観ていた、というから凄まじい人気である。
 梗概は、第二次世界大戦下のバンコクを舞台に、性格異常者のタイ人女子大生・アンスマリンと精神薄弱の傾向甚だしい日本海軍大尉・小堀洋一が織り成す弛緩しきった愛憎劇だ・・・こんな書き出しからお察し頂けるだろうが、私はこのタイの一般大衆によって偏愛され、本朝のアホバカ右翼泣かせの物語に対し、根本的に相容れない反感を抱いている。もちろん私とて世間一般から見れば「右巻き」に分類される思想傾向であることは自覚している。それゆえに、国辱モノの「メナムの残照」に腹を立てているのだ。
 しかし、物語のディティール自体は、そっくり現代日タイ関係を考察する上で非常に興味深いレトリックであるため、無視することも出来ない。

 なるべく主観を交えず、梗概を申し上げよう。

 チャオプラヤ河畔で果樹園を営む母子家庭の気丈な娘・アンスマリンにはワナスという将来を嘱望されるエリートの恋人がいた。ワナスが英国留学へ旅立つにあたって、二人は婚約する。
 しかし美男美女のカップルが掴もうとしているささやかな幸福が、時代を覆い始める暗雲に呑み込まれていく筋書きは大袈裟なスケールで描かれるメロドラマのお約束事だろう。
 折りしも、北東アジアの海上に浮かぶ日本帝国が、東洋覇権の野望もあらわに大軍を陸続と送り出し始める(カッコイイ!!)。かくして、ヒロインが暮らすバンコクにも日本軍は進駐してきた。
 そして、アンスマリンは自宅の近所に設営された日本海軍の造船所へ赴任してきたコボリと運命的な出逢いをする。しかし、彼女にとって日本軍人はすべからく憎むべき侵略者だった。あくまでも反抗的な姿勢を貫こうとする。こうした現地人の娘の高慢ちきな態度に、コボリは素朴な好意をいだく。



 アンスマリンは自尊心を崩そうとしないが、やがて我らが日本士官の誠実な人柄にほだされ、ワナスに未練を残しつつも、次第にコボリを内心愛するようになる。葛藤劇がしばらく繰り返されるが、ここで登場するのが典型的なタイ男。かつて幼いアンスマリンと母親を捨て、タイ海軍将官の婿養子に納まったルアンなる海軍佐官が、日本軍への協力の証としてコボリとアンスマリンを政略結婚させる案を持ち出す。
 ・・・「オイオイ、日本軍にゃ政略結婚などという習慣はないぞ。それに、実の娘を平気で国策に献じてしまうたぁ、とんでもねえオヤジだ」・・・などと野暮は言うなかれ。タイだから、なんでもアリなのである。
 婚姻話はトントン拍子に進み、晴れて相思相愛の二人はめでたく政略結婚...???。しかし、その直後、ルアンが反日ゲリラ勢力「自由タイ」のリーダーで、英軍と気脈を通じていたことが判明したり、くだらない痴話喧嘩によって、アンスマリンは再びコボリを拒絶するようになる。
 そしてクライマックス。よりによってアンスマリンの家の使用人どもが英軍にチンコロしたバンコクノーイ駅における連絡任務にコボリが赴き、飛来した英爆撃機の攻撃で致命的な被弾をする。慌てて現場へ駆け付けたアンスマリンは、虫の息のコボリを抱きかかえ、胎内に芽生えた新しい生命の心音を聴かせつつ「やっぱりコボリを愛している」と切々と語りかけては涙を流し、コボリは安堵して永遠の眠りに就く・・・

 はっきり言って、洗練された日本のドラマを見慣れた身には、「おい、もうひと捻り、ないのかよ?」と突っ込みたくなるラストだが、映画館ではこのシーンで失神する姐ちゃんが続出したわけだから、素直に「感動のエピローグ」とヨイショしておいたほうが無用の敵を作らずにすむだろう。

 ・・・だが、これだけは言わせて欲しい。
 「我が大日本帝国には、陸海軍のいずれにも、あんな柔弱な軍人は居らぬっ!!」







'95年の映画版では主題歌を小堀を演じたBard
こと、トンチャイ・マックインタイが熱唱している。
(写真はサントラ盤CDのジャケット)




















参考リンク

タイ映画!  メナムの残照/クーカム
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 総括

 バンコクにいた頃、地元の彼女と一緒にいると、見ず知らずのタイ人から「コボリ」呼ばわりされることが多かった。安易な連中である。タイ女と連れ立っている日本男児は十羽一からげにコボリと呼んでおけば好い気分になると考えている。実際、喜んでいる同族が殆どだったから、それはそれで仕方があるまい。但し私は、「俺は大日本帝国陸軍憲兵隊だ」と激烈な捨て台詞を吐き、我がアンスマリンは淡白に、「うちの宿六は甲斐性なしのメンダー(タガメ)よ」と解説し、その場をしのいでいたものだ。

 さて、この数たびリバイバルで映画、テレビドラマが作られた物語は、決して第二次世界大戦下の叙景ではない。考証学という概念に乏しいため、時系列が滅茶苦茶に挿入されている記録映像や日本の陸軍と海軍がごちゃ混ぜに隊列を組んで行進するシーンなど毒気を抜かれてしまう箇所も多々あるが、当事者たちはマジメなスペクタクルのつもりで作っているので、笑いを狙ったポンチでもない。やはり、現代の日タイ関係を、憎たらしいくらい巧みに風刺した解剖図なのである。そのくだりは、ちょっと事情に通じた者なら深読みするまでもなく、誰もがすぐにピンと来るであろう。

 コボリはそっくりそのまま「日本政府」、「日本企業」、ついでに言うと黄昏のタニヤ通りをブラブラしている日本人のオッサンである。実力はあるが、救いがたいお人好し。コボリの人物像は、さんざんタイ人に裏切られ、馬鹿にされ、好き放題にあしらわれているくせに、あくまでも誠意を貫き、文化背景の異なる相手にも、いつか自分と同質の真心を萌芽してもらえるよう希うマゾヒストの日本人の典型だ。
 方や、アンスマリンは「タイ政府」の化身であり、「日本企業とジョイントベンチャーするタイ企業」であり、タニヤの姐ちゃんそのものだ。じつに油断がならない。気まぐれ、放縦、我が侭を乱発した挙句、いざ死んでしまうとなると「死なないで、コボリ〜」などと、如何にもしおらしく訴える。好景気の時は労働争議の旗を振り回しておきながら、業績不振で撤退することが決まると手のひらを返したように日本企業に縋りつくパタヤ街道の労働組合そのものだ。劇中最も香ばしいキャラと言うべき、ルアンも誤魔化しようがないくらい、典型的タイ人である。面従腹背、そして鮮やかな裏切り。 
 ・・・ああ、事例に事欠かんな、こういう手合いはよ。いいさ、いいさ。せいぜい日本人をおだてて、たぶらかし、裏でしっかりファランと手を結びなさい。しかし、戦後教育を受けた現代日本人には教育勅語も修身の素養もない。キレたら、とことんキレる。次の戦争がはじまったら、中村明人将軍もいなけりゃ、コボリもいない。スタンリー・キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」でも見て覚悟しておくんだな。ソムナムナー。

 ・・・こんなへそ曲がりな見方をしてみると、この物語は明晰なレトリックだ、と断定する私の意見にも納得がいくだろう。原作本にまれ、映画にまれ、これからタイと関わりを持つという人には、伝染病の予防接種と同じ感覚で見ておいて頂きたい一作なのである。




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