日タイの歴史を動かした親日家 象のはな子の育て親、逝く (前編)

 バンコク週報699号 (1996年5月17日〜23日号)  

 去る4月28日、元タイ国陸軍大尉ソムアン・サラサスという老人が亡くなった。享年85歳。大往生だった。この在野の人物の死は、ひとつの日タイ裏面史の幕引きと言っていい。

 昭和24年秋。タイから波涛を越えてやって来た一頭の小さな雌象が、敗戦の混沌がなおも続く日本の巷間に一条の光を投げ与えた。数週間遅れて横浜港に到着する事になるインドのネルー首相から送られたインディラとともに、その2歳の雌象は愛嬌と希望を振りまきながら、GHQの占領政策下に置かれた日本国民、とりわけて子供たちから熱烈な歓迎を受けたという。

 子象は公募によって『はな子』と命名された。3年半に亙る移動動物園。はな子は日本全国の津々浦々を旅して、やがて東京都下の井の頭公園に安住を得ることになり、現在に至っている。

 ところで、このはな子の贈り主が、現役を退いてまだ間もないタイ陸軍の一将校だったという事実は、インディラの寄贈者で一国の首相だったネルーに比べて殆ど一般の日本人に知られていない。

 自称“タイの宮本武蔵”、ソムアン・サラサスは、王室の傍系に連なる。このきわめて風変わりな英傑が、はな子を戦火に打ちひしがれた我が国に遣わしてくれたのである。

 真空投げの三船十段の愛弟子で、講道館柔道八段。空手は九段。また青年期にフランスのソルボンヌ大学で化学を学んでいた頃は、フェンシングの中でもフルーレやサーブルより激烈なエペを習得し、大学の試合では並みいるフランス人剣士を総なめにしている。また、同氏は詩人でもあった。

 戦時下のオリエンタル・ホテル。タイに進駐する日本陸軍の司令部が設営されたこの界隈が、ソムアン大尉にとって最初の桧舞台となった。

 昭和16年12月8日早暁。海南島の三亜港を出動した山下奉文中将率いる第二十五軍を載せた高速輸送船団は、はじめバンコクへ向かうと見せかけてタイランド湾を北に進んでから、針路反転百八十度、対英米宣戦大詔煥発(おおみことのりかんぱつ)をもって南部シンゴラ(ソンクラー)海岸に上陸を敢行した。これに先行してパタニ、英領マレイのコタバルを強襲した別働隊は英印軍の激しい抵抗に遭い、甚大な損害を余儀なくされたが、シンゴラの兵団主力は無血上陸を成功させている。

 タイは日本の同盟国だった。山下軍四万は、12万の英印軍が待ち受けるマレイ半島、8万の敵がひしめくシンガポールをめがけて、世に言う「マレー・シンガポール攻略戦」に突入していく。

 しかし、翌12月9日、ただでさえ危うげな『日タイ攻守同盟』がたちまち瓦解しかねない危機がラノンにおいて発生する。英空軍の一大策源地、ビクトリア・ポイントがラノンの対岸、ビルマ側にあった。ビクトリア・ポイントの攻略は、日本軍にとって、制空権を確保する上で必要欠くべからざる戦略的意義があった。ただ、この作戦に関する事前の通達は、一切タイ側になされていなかった。ラノン県を守備する警察軍と山下軍分遣隊のあいだで大規模な武力衝突が発生した。

 一介の情報士官、ソムアン大尉は、その思想と信念ゆえ、日本との同盟関係維持のため、バンコク駐留軍司令官、中村明人中将と相計り、当時サイゴンにあった南方軍総司令官、寺内寿一元帥の名を”騙った”停戦命令を発令し、差し迫った危機を鮮やかに解決してしまった。ちなみに中村中将という人物も、タイ人から「ホトケの司令官」と慕われた仁将であり、女流作家のトムヤンティは後世、同将軍のイメージから『クーカム/メナムの残照』のコボリ大尉を塑像したと言われている。

 ソムアン氏は若い頃、政変で国を追われた父、プラ・サラサス・ポラカン元経済大臣に随伴して日本で亡命生活を送っている。武士道や日本特有の精神文化に尋常ならざる影響を受けたのは、この時期だった。さらにパリにおいて、黄色人種を軽蔑しきった白色人種の無体なあしらいをたびたび受けて、文明の本質について考える体験を重ねていった。

 第二次世界大戦で、多くのタイ人が日本軍に面従腹背を決め込んでいたのに対し、ソムアン氏が本心から日本との連帯を希求したのは、欧米の植民地主義という時代のパラダイムを打ち砕き、物質的でない、精神文明圏を開闢しようとする執念の所産であったかも知れない。ラノン事件で颯爽と歴史の舞台に現れた青年将校は、その志を晩年に著した自伝のタイトル『黄色い大地』に収斂させている。

 
(註) 上野動物園で飼育を担当した山野辺氏の談によると、『はな子』という名前の由来は、昭和10年にタイの先代国王ラマ八世・アナンダ陛下とタイ国少年少女団から上野動物園に寄贈され、敗戦の年に餓死処分された初代『花子』を偲ぶ意志がこめられている。
 



日タイの歴史を動かした親日家 象のはな子の育て親、逝く (後編)

 バンコク週報700号 (1996年5月24日〜30日号)  

 大戦後、大部分が焦土と化した都市部には戦災孤児があふれ、朝夕の米に事欠く時代が日本で始まった。食糧難は、多くの復員兵や引揚者が加わった戦後のほうが、戦時中より深刻だったという。国土が荒れ果て、人心の乱れた友邦の姿を、ソムアン・サラサス氏は悲痛な嘆きを涙に託して眺めていた。

 そんな矢先、日本の子供たちが「象を見たい」と切望しているのを知り、氏は私財を投じて、生まれたばかりの一頭の子象を王室の御料牧場から譲り受け、しばらく自宅で育てた。象に名前はなく、ただチャーン(タイ語で「象」の意)と呼んでいた。しかるのち、思い入れある国の小さな国民にプレゼントしたのであった。当時の暗澹とした世情の中、インディラは朝日新聞が、のちに『はな子』と呼ばれることになるチャーンのほうは読売新聞社と講談社が共同でキャンペーンを張ったものだから、この珍しく明るい話題・象招致合戦は広く世間の知るところとなったのである。

 とは言え、ソムアン・サラサス氏は我が国にとって、単に「象をくれた篤志家」というだけの存在ではなかった。対戦勃発時、日タイ関係の破局の火種となりかけたラノン事件の収拾にはじまる「タイ日友好」への実践的な取り組みは、戦後になって真骨頂を迎えることになる。

 戦時中、日本軍は戦費の調達をはかるため、タイ国政府から十億バーツの借款を受けている。ピブン政権下の国家予算は約2億バーツだったから、この桁外れな融資は瞬く間にタイを凄まじいインフレに陥れた。そして、昭和35年から、返済交渉が始まった。特別円・バーツ交渉である。だが、なにしろアジア各国から戦時賠償の請求を突き付けられていたのが、その頃の日本政府である。

 時の池田隼人蔵相は、財源の乏しさから返済額の大幅なディスカウントをタイ側交渉団の団長、ワンワイタヤコーン殿下に要求した。しかし根拠の曖昧な賠償金と違い、タイ側にしてみれば、きちんと大日本帝国の署名がはいった念書を携えての、正当な債権行使である。池田蔵相の頼みを呑んでしまっては、国家と国民に対する裏切りとなってしまう。

 卓上には交渉団の最高顧問として来日したソムアン氏の顔が並んでいた。最高顧問とは、いざという時、王族の団長になりかわって泥水をあびる役である。氏は苦渋の面持ちで、しかし決然と日本人の値引き希望を受け入れた。

 「・・・あと数年。東京オリンピックを転機として、日本は爆発的な経済成長の時代を迎えるだろう。だが、いまここで額面を曲げず、なけなしのカネを毟り取ってしまったら、あと20年は低迷を続けるだろう。日本の発展はタイの国益に合致していく・・・妥協は間尺に合う」

 愛国者としての明晰を含みつつ、ソムアン氏は自身の独善性を白眼視する同僚たちに、「こんな気の毒な日本を見ていられるか!」と一喝してしまったものだから、帰国後、“売国奴”の讒謗に甘んじなければならなくなり、しかし宮中に参内すると、ラマ九世プミポン国王に、今となっては驚くほど正確な情勢分析を奏上し、宸襟を安んじ奉っている。

 もとよりソムアン氏の国際情勢を達観する眼力には定評があった。

 たとえばGHQのマッカーサー元帥やウィロビー参謀局長も、連合国の対日政策をめぐる議論で散々にやり込められている。神道指令や公職追放、それに東京裁判でひたすら日本の弱体化、国民の白痴化を目論んでいたアメリカ軍人に同氏は説いた、
 「現在、鴨緑江の北岸には朝鮮人で組織された赤軍が集結し、日本が去った半島を虎視眈々と狙っています」、「あなた方はフランス人の未練心と解釈なさっているようだが、目下インドシナの山間ではホーチミンがソ連の支援を受けて武力を整えつつあります」。そして結論付けた、「日本の人材を手当たり次第巣鴨へ送り込んでいては、とどのつまり、損をするのはアメリカです。日本を“利用”することをお考えください」。しかし、エルベ川の感動の余韻が抜けきらない人々には、タイ陸軍大尉の戦慄すべき予言がまるで伝わらなかった。かくして、アジアの歴史は、ソムアン氏が暗示した通りに展開していくことになる。いずれにしろ、特別円バーツ交渉が終わって間もなく、日本は高度経済成長に突入し、やがて莫大な投資がタイ国にもたらされるようになったのは周知のとおりである。

 その誕生パーティーにはアナン首相やチャワリット内相が祝辞を述べに顔を出すほど盛況だが、日本ばかりか、タイの社会においても、ソムアン・サラサスの名は事実上無名に等しい。それでも、一部の政界通の間では、“伝説のクーデター・コンサルタント”として知られている。「はな子のお父さん」に似つかわしくない“悪名”かも知れないが、これも歴史を左右する国際謀略の地下水脈を変幻自在に往来していた豪傑らしい素顔である。



 戦後、幾度となく発生し、“タイ政界の風物詩”とまで言われた政変劇には、成功したものもあれば失敗に帰したものもある。うまくいくもの、いかないもの。それに、道義の有無。ソムアン氏は事前に首謀者から持ち込まれるプランを吟味して、“まともな計画”には荷担し、話にならない企画書はまよわず屑篭に捨てた。そして結末はことごとく氏の見立て通りに落ち着いていく。やや過激なフィクサーにして、同時に怜悧な軍師。それが壮年期の肖像だった。



 晩年のソムアン氏は、実業家として過ごした。また、チャワリット陸軍大将(当時)の要請により、王立プロジェクトに参加して、赤貧に打ちひしがれた北東タイの開発に尽力している。10数年間、癌を患って明日をも知れない生命などとのたまいながら、常に老人らしからぬ鋭い眼光を放ち、しかも3年前、去年と、日本へ講演旅行するほどの怪物ぶりだった。

 4月25日の宵の口、筆者はたまたまスクムビット・ソーイ38のソムアン邸へふらりと立ち寄った。

 「今日は体調が芳しくない」

 と、お気に入りの葉巻をくゆらせながら“ソムアン先生”は言った。珍しいことがあるものだ、と筆者は刹那、訝しく思った。弱者めいた言葉を本人の口から聞いたのは初めてだったからだ。当り障りのない政談とチャンバラ談義でお茶を濁し、暇乞いすると、老虎はにわかに双眸を炯らせ、呟いた、

 「ところで、次の日本の総理大臣は誰になるかな?」

 帰幽は3日後の朝だった。つまり、それがソムアン・サラサスという激動の近代アジアを裏側から演出し続けたタイの大物志士が、日本人に投げかけた最後の疑問符となった。



師匠ソムアン・サラサスのこと 黄色い大地


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