南京ゾンビ A


 いったい何処からこれだけの人間が湧いて来たのか、と笑ってしまうほど、南京城外の特設会場は人民の海と化していた。後楽園ドームが一グロス入る敷地には四百万人が集まっている、と、現地の統計調査局が発表した。
 間もなく、やや誇張気味だった数字は四十万人と訂正されたが、いずれにしても、満員御礼であることには違いない。主催者はイベントに、中華ウッドストックという、これまた焦点の定まらない浅はかなコンセプトを追加していた。冬なので、いかに人権思想の希薄な中華共和国と言えども、流石に放水車でお客に水をぶっかけるような真似はしなかったが、あやしげなバンドや奏者が出演する友好音楽祭が、前半のプログラムに組み入れられていた。
 折りしもステージでは、現地のロック歌手が解放化政策をたたえる歌をわめいている。ファッションショーの前座を務める演奏家らは、客のブーイングを浴びるとただちに退場させられ、新手がステージに登壇する。ウッドストックというより、システムはアポロシアターのアマチュアナイト、水準は、ありていに言ってMHKのど自慢に近かった。
 強引とも言える手段で、自分の講演会を企画に捻り込んだ土門たま子と、特別ゲストのノーペル賞作家・近江健三郎および倅は、出番が来るまで逗留先の南京富豪大酒店の自室に控えていた。近江の息子、響は音楽家として中華入りしたものの、モーツアルトのサビの部分を掻き集めたような彼の作品の数々は、一曲目の最初のフレーズからして中華人の好みに受け入れられず、あらん限りの罵声を浴びて、早々に退場させられている。
 なお、物語の趣旨から外れるので、自分の美的センスを無視された前衛芸術家・岡本の憤りと落伍の顛末は割愛する。
 「たいへんな賑わいです」
 ニュースターミナルは南京の特設スタジオから生中継されていた。マイクを片手に久我寿は絶叫する。
 「日本と中華共和国の間に、新しい歴史が始まりました・・・おっ痛!」
 中華人の若者の一団が、傍若無人にも、見通しのよい特設スタジオに乱入し、ステージに声援を送り始めた。中華人は他人への配慮に欠ける上、マナーが悪い。生放送中だというのに、脳天から突き上げるような大声で叫んでみたり、喉がいがらっぽくなると、あたり構わず痰を吐く。押し退けられた久我は舌を打ち鳴らすと、あらためて瞬きを繰り返し、偽善的なカメラ目線を取り繕った。
 「たいへんな熱気です。思い返せば1937年の今日、日本軍はこの町で・・・おいっ、ちくしょう!きをつけろよ、痛えなあ!」
 老いた母親を手引きする中年息子が、久我を突き飛ばして観衆に加わった。久我は躓き、足首をくじいたらしい。
 「いい加減にしろ。棺桶に片足突っ込んだババアまで引っ張り出して来るんじゃねえ」
 高性能マイクは、個人的な毒づきも、細大漏らさず拾って電波に乗せた。
 日本と中国ばかりでなく、世界中から集められた、と喧伝されているトップモデルを一目見ようと、娯楽に乏しい内陸部の中国人が見物に来るのは自然のなりゆきだった。恩着せがましい面持ちで、地区委員が近寄ってきた。
 「たいへんですね」
 「なんのこれしき。以前、フランスにサッカーのワールドカップを取材しに行った時は、暴徒にカメラを壊されて、こんなもんじゃありませんでした」
 ディレクターが洋行歴をひけらかし、鼻を鳴らした。
 「それに、日本には、追っかけと呼ばれるストーカーが大勢いますからね。このイベントにも、モデル目当てのカメラ小僧が大勢潜り込んでいると思いますが、厄介さにおいては、やつらのほうがフーリガンより、はるかに上です」
 興奮するディレクターは、自国を辱めているのか、自慢しているのか、とにかく陽気に感想を述べた。
 その背後で、照明を浴びてペラペラしゃべる久我が、またしても無法な観客の一団に押しのけられ、よろめき、「バカヤロウ!この、クソちゃ○ころ!」などと怒鳴り散らしていた。
 「あなたたちのために、丘の上を確保しました」
 見るに見かねて、地区委員が用意した野外スタジオは、ここから少し後ろに下がったところにある、古いコンクリートの瓦礫でできた山だった。ハイビジョンの望遠カメラなら、十分ステージを撮ることができる。
 ディレクターが提示するメモを見て、座った眼差しの久我は視聴者にいった。
 「えー。ちょっと、会場が混雑してきましたので、場所を変えます」
 場所を移すと、会場の前景が手にとるように見渡せた。どさくさに紛れて帯に日本語で、「くらしに役立つ新聞紅旗を読みましょう」などと書かれたアドバルーンも上がっている。平和憲法党に便乗した日本の政党は、ひとつではなかった。現在は与党となっている政党の連中も、票田となる宗教団体のルーマニア国旗とよく似た旗を持ち込み、中華との組織的な交流の長さを誇示するように、騒ぎに加わっていた。
 学芸会以下の、ひどい乱痴気騒ぎが終了し、いよいよメインイベントのショー開会を告げる花火が盛大に、何発も打ち上げられた。その見事な連発花火が齎す大音響は、心地よく臓腑を揺らし、そして国共内戦後、久しく沈黙に沈んでいた大地を、せわしなく震撼させた。



 時系列は前夜に遡る。
 このイベントの話がテレビ旭日のライバル局、TVSに伝わったのは開催前日の深夜だった。NEWS11pmのスタジオ前には、オンエア中を示す赤灯が消えると、ややあって、「多事多論」を終えたキャスターの筑後哲也が姿を見せた。メッセンジャーのご注進が済むと、ニュース番組を騙って日常生活のフラストレーションを発散させたばかりの初老男は、いきり立った。
 「なんでもっと早く報せてくれないんだ」
 ジャーナリストにあるまじき自分の情報収集の怠惰を棚上げして、筑後はテレ旭南京プロジェクトを雑談の肴にしていた編集局員とアルバイトの二人を叱り飛ばした。
 「君らの職務怠慢は、私に対する背信行為だ。次の移動で総括するから、よく覚えておくといい」
 久我や岡本と同じ大学で、彼らより早い時期から日本の赤化をめざして活動していた先輩格の筑後は、こうした抜け駆けを耳にして、黙っているわけにいかなかった。
 「世間には、私とあの軽薄な久我を同列視しようとする反動主義者が少なからずいると聞く。冗談ではない。平和憲法党の尻をかいて第四の権力の長になった気分なのだろうが、玉ねぎ婆と長年歌番組で司会コンビを組んでいた局アナふぜいに、真のジャーナリストの頂点が誰であるのか、教えてやらねばなるまい」
 太鼓持ちのディレクターが拍手した。
 「そうですとも。ここは、我々も、馬鹿げたイベントの粗を探し、日中友好の美名を騙った商業主義の内情を暴露してやるべきです」
 MHKのドキュメンタリー畑から引き抜かれた「細胞」は、現在の立場も忘れて民放の体質を露骨になじった。
 「よろしければ、ただちに精鋭のスタッフを集めます」
 パスポートは常に持ち歩いている。午前二時、親しい中華大使館員を叩き起こすとビザを発給させると、筑後とディレクターは、カメラマンと音声屋からなる取材クルーを従えて、それと、以前から中華旅行をしたがっていた製作部長が飛び入り参加し、五人は極秘裏に中華共和国のイベント会場へ急行した。



 地区委員の正体は公安である。相棒と二人でイベント会場の周囲をみまわった。
 噂に聞く日本人の黄色追跡者(ストーカー)は、フーリガン以上の脅威だった。なにしろ本性は日本鬼子である。どんな手を使ってモデルに接近をはかるか、知れたものではない。
 ステージでは、金ラメの、エンゼルフィッシュのような衣装をまとう、自然の造形の傑作と賞賛したくなるような中華美女三千人(実際は三十人)が踊っていた。あの美しい鶴の群れに、泥亀など、決して近づけてはならない。職務忠実な地区委員は、享楽より、義務を選んだ。
 やかましい遠くの音響に掻き消されつつも、近くで物音がした。よく見ると、半世紀近くも風雨に晒されていた瓦礫の一角に、亀裂が生じていた。
 「誰か、いるのか」
 亀裂を覗き込みながら、公安は誰何する。息の音はするが、返事はない。相棒がいった、
 「きっと、日本鬼子だ。奴らは地下道を掘って会場に接近していいたのだ」
 地区委員は頷き返した。
 「応援など呼ぶ必要はない。我々の手で全員を逮捕してやろう」
 ふたりの男は懐中電灯で中を照らした。そして、心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。
 効果音は省略する。
 闇の中から、頭からローションを被ったようにずぶ濡れの、紫色の顔が浮かびあがった。
 「だ、誰だ貴様。怪しいやつ」
 蝋人形のような男は、何も答えない。それこそ誰あろう、花火の衝撃波で蘇生した徐来福主任研究員だったのだ。脳細胞が機能しなくなっているものの、寝起きの飢えを満たそうとする本能は残っていた。徐来福の肉体は、緩慢な動作で正面の生体にしがみついた。
 「アイヤー」
 絶叫する地区委員は、首を噛まれていた。もうひとりの男も、後ろから現れたゾンビに抱きつかれた。花火と、大音響の中華ロックが、地区委員とその他一名の断末魔を掻き消した。ゾンビに噛み付かれたら最後、噛まれた者も絶命し、ゾンビとなって蘇るのが、お約束事である。
 血まみれの地区委員は倒れ、徐とともに生ける屍となった第六十九工廠の職員たちが全員通り過ぎてしまうと、痙攣しながら身を起こした。地区委員の瞳孔は完全に弛緩し、ひろがりきっていた。



 筑後哲也と他四名は、チャーターしたヘリコプターを南京富豪大酒店の屋上ヘリポートへ着地させた。いみじくも、土門たま子一行や近江父子が投宿しているホテルだったが、このあたりには、ヘリコプターが降りることのできる民間施設が他になかった。
 「ご苦労さん。帰りは別の足を探すから、きみは帰りたまえ」
 職業意識と一抹の復讐心に燃える日本人は機敏にヘリコプターを飛び降りると、機材を抱えて現場へ急いだ。
 しかし、法外なチップを懐に収めた操縦士は、共産中華で一、二を争う知る人ぞ知る、南京郊外の淫蕩的な魔窟の闇へ姿を消した。



 あきれ顔の久我が耳を塞ぎながら、カメラの前に立った。
 「え〜、とても煩いです。熱気はいいんですが、これでは何も聴こえません」
 ファインダーへの闖入者には慣れていた。スタッフたちは、一瞬それをゴム製の怪物マスクをつけた目立ちたがり屋と思った。久我の後ろに、全身ずぶ濡れのグロデスクな特殊メイク男が現れた。リアルさが、香港あたりのお馬鹿映画量産会社の技術を髣髴させる。ディレクターは、いちおう注意しようとするカメラマンを制止した。日ごろ、口の聞き方を知らない久我を驚かしてやるのも一興だ。
 紫仮面は、緩慢な動きで久我を背後から襲った。
 「なっ!・・・ふぎゃあ!」
 いつもの他人を小馬鹿にしきったシニカルさは何処へ行ったのやら、久我は気色悪い襲撃者を顔を見て絶叫した。衛星を介して、その表情は日本全国のテレビに映された。
 「あはは。いいぞ。いいザマだ」
 「だけど、本当にいいんですか?久我さん、首から血を流していますよ」
 「SMホモにしては、やり過ぎだな」
 尋常でない空気をディレクターも察知した。軽い便乗ジョークのつもりが、大変な事態を招いてしまったことも。
 恨みがましい顔でカメラを睨み、久我の表情は永遠に固着した。だが、次の瞬間、呆然と情景を捉えていたカメラも崩れた。新手のゾンビがカメラマンを襲ったためである。ただ、地面に落ちたカメラは、画像をブレさせながらも、久我の足を映し続けた。ややあって痙攣が走り、ふたたびむくむく動き出した久我の足に、視聴者は胸をなでおろし、タチのわるいテレ旭ジョークに憤り、正論の会のメンバーは、こぞってテレ旭へ苦情の電話を入れた。
 ディレクターは一目散に逃げ出していた。
 そして目の前に現れた人影をみとめて安堵した。
 ついさっき、最高の撮影場所へ案内してくれた地区委員だったからである。
 地区委員も血だらけだったが、暗いので表情すらわからない。
 「たすけてくれ。化け物だ」
 次の瞬間、ディレクターも変わり果てた地区委員に喉元を噛み切られていた。
 たまたま観光に来ていてイベントに遭遇した日本人の馬鹿女の二人連れは、どういう余興か、グロデスクな姿で会場に近づいて来る久我寿を見つけて大喜びした。
 「わあ、久我さんじゃない?感激。記念にサインもらっておこうよ」
 「うん。行こう、行こう」
 彼女たちの運命や如何に?もちろん、こうした場面に出てくる分別心に欠けた名も無きエキストラは、飛んで火にいる夏の虫以上の何者でもない。我らが大和撫子は、辿るべき運命を辿った。
 かくして十分後、熱狂のイベント会場は、その名の通りイベント(事件)現場と化し、四十万人が等身大で阿鼻叫喚の地獄絵図を描くことになった。



 少しくらいファッションショーとやらを見てもいい。南京富豪大酒店で休んでいた土門たま子は、醒めきった辻聖美はともかく、楽しみを奪われ、不貞腐れていた藁陽子の離党を危惧したのか、早めに会場へ向かうと言い出した。
 ところが、三人が外へ出ようとすると、西側世界のマナーを身に付けた支配人が、緊張をはらんだ面差しで制止した。
 「会場で、たいへんな事件が起きています。外出は控えてください」
 「えー!そんなのつまんない。事件くらい、へっちゃらよお」
 やかましい小娘を黙らせて、岩のような大年増は支配人を威嚇した。
 「社会主義国なのに、どうして犯罪が起きるのよ?」
 「いえ、犯罪でなく、イベント(事件)でございます」
 「詭弁です。論理的すげ替えです。修正主義の誤算と正確に認めるべきでしょう。さあ、何かおっしゃいな」
 あきれ果てた教条主義者に、通訳の青年は戸惑いを隠せなかった。外国語と言えば英語しかしゃべれない支配人はきょとんとしていたが、近くにいた日本で不法就労の経験がある若い服務員は苦笑いしていた。
 「やあ」
 近江健三郎がロビーに姿を見せた。
 「なんだか大変なことになりましたな。何が起きたのです?」
 土門の剣幕に押されて、肝心なことが言えずにいた支配人は、ようやく知っている限りの事実を話すことができた。
 「ショーの会場に、人食い鬼の群れが現れました」
 「まあ、そんな人を喰ったような話で、我々を煙に巻く気?」
 鬼のような形相で、土門たま子は詰め寄った。
 「まあまあ」
 温厚に、近江健三郎が割り込んだ。
 「鬼は古今東西、自然をおそれる人々の想像力にとって、形而上学的な、実存足りえる媒介です。すなわち、響の感性をまだよく理解し得ない気の毒な文化水準の人々にとって、空想が理性を凌駕するのは当然の成り行きでしょう。群集のイドラは・・・」
 膨大な知識の披瀝と自らの文学的言い回しに絡めとられ、興奮したバカどもがパニックを起こして収拾がつかない、という仮説の結びになかなか辿り着けずにいる男を尻目に、土門たま子は支配人に言った。
 「流言飛語にまどわされてはいけません。あなたの見解は?」
 「いえ、ですから、かつて日本鬼子に殺戮された同胞たちが、よりによって自分たちの命日に、あのいまわしい日本軍の大砲を思わせる花火の音を聞いて、冥府から戻ってきたのだと・・・」
 いつもなら、保守反動に対し、鬼の首でも取ったかのように吹聴するべき素朴な中華人民の肉声であったが、土門たま子は激怒した。
 「主観はいいから、真実を述べなさい」
 「いま、町の人民解放軍が、現場を包囲しています。鬼をすべて掃討するまで、外出禁止令が布告されました」
 外出禁止令、そして掃討と聞いて、土門たま子の脳裏には、文化大躍進のイメージが過ぎった。うっかりすると、政治家であると同時に文化人でもある自分は、如何に外国人とはいえ粛清の対象にされてしまうかも知れない。
 「自衛隊をよこしなさい。邦人の保護が急務です」
 進歩的文化人の演繹法は、義和団の時代から、ちっとも進歩していなかった。もはや、護憲論者の言っていることは、めちゃくちゃだった。



 だが、その頃、南京の郊外では土門たちの想像を絶する情景が繰り広げられていた。
 突如、退廃的イベントが行われていた空き地に出現した鬼の群れは、凶悪な接吻によって、たちまち集まっていた群衆をその僕としていた。
 89年の天安門同様、暴徒鎮圧の心積もりで出動した最初の一隊は、ヒステリックにしがみついてくる髪を振り乱した女を、もっけの幸い、犯そうと、各員適宜物陰に引きずり込み、噛み付かれた。
 兵士を仲間に加えた鬼の群れは、四十万。とても数千人の駐屯部隊では歯が立たなかった。指揮官の判断は、迅速だった。
 人民解放軍は、市民を自分たちの支配から解放して、つまりは置き去りにして、総員、揚子江の波止場、下関(シャーカン)から船に乗って対岸へ撤退したのである。小さな漁船まで徴収して逃げたというのだから凄まじい。当然、異論を唱える船主や避難民もいたけれど、軍人は力ずくで自分たちの退路を確保した。しつこく食い下がる者は、国家反逆罪の現行犯により、その場で処刑された。あたりには、同胞の銃弾によって倒された一般人民の死体が累々と折り重なり、一部は川下へ流されていった。



 「なんだ。やけに悪意を感じるなあ」
 揚子江を遡上するルートを使って隠密裏に会場へ接近していたTVSクルーのひとりが、月光に照らされた川面をプカプカ浮かんでいる物体を見て、食傷気味にいった、
 「いくら、先の戦争の過ちを下敷きにしたイベントとは言え、何もあすこまで、あんな沢山の死体人形を流すことはないのに・・・」
 しゃべっていたのは音声係だった。これを受けて、年配の製作部長が冷ややかに笑った。
 「あすこまでやったら、視聴者は反感を持つよ。またしても旭日のヤラセだとね」
 他局の足を引っ張ることしか頭にない製作部長を、ディレクターは品定めするように言った。
 「民放なんて、どこも似たり寄ったりでしょう」
 「きみはいったい、誰から給料を・・・」
 「しっ」
 製作部長を制止して、先頭を歩いていた筑後哲也が息を殺した、
 「何か様子がおかしい」
 はるか前方に、煌々と輝く会場が認められた。だが、もう聴こえて来てもいいはずの音楽が、聴こえて来ない。代わりに地響きのように、不気味なうめき声や悲鳴が伝わってくる。つめたい風も、どこか生臭い。
 「ちっ、筑後さん、あれ・・・!」
 軽口を叩いていた時とは打って変わった声色で、音声係は船が一艘もない波止場を指差した。五人の顔から血の気が引いた。
 「まさか・・・」
 ディレクターが呟くと、一旦休戦を決めた製作部長が相槌を打つ。
 「とうとう、やりやがったな。久我のやつ。何もここまでリアリティを追求せんでも」
 製作部長を相手にせず、ディレクターは筑後を見た、
 「保守派が息を吹き返したのでしょうか?退廃的なファッションショーが導火線になったのかも知れない」
 筑後も、共産主義の鉄則は熟知していた。終始無言を守る若いカメラマンは、前年、戦火のアフガニスタンを歩いてきただけに、死体に対する免疫ができていた。棚から牡丹餅のスクープに興奮して、立ち上がったり、しゃがんだり、生々しい血まみれの被写体を撮り続けた。
 「前から人が来る。あの人に聞いてみよう」
 暗い街灯の下を、無数の人影が、おぼつかない足取りで近づいて来る。
 「生き残りかも知れませんね」
 カメラマンが高感度の望遠レンズで群集を見た。そして、咥えていたタバコを地面に落とした。
 「逃げましょう・・・あの連中、全員首の肉が抉られている。死ぬか、生きていても重症で、とても歩けるような怪我じゃない。すると、ジャンキーか・・・いずれにせよ、これは、尋常な事態ではありません」
 膝を震わせる音声係は、自分の機材を地面に落としていた。
 一団の視覚というべきカメラマンが戦場帰りだったことは、TVSクルーに賢明な選択肢を与えた。もし、彼がバラエティ番組の担当だったら、彼らは興味本位に前進を続けていただろう。生命の危機を察知する勘を信頼し、筑後は深入りを断念し、後退を決めた。




Bへ



[PR]動画