フィリピンレポート(第三回スタディーツアーに同行して)



 日本のパスポートは非常に便利な通行手形である。どんなに薄汚いルンペンのような身形をしていても、日本人である、という一事だけで、たいがいの国のイミグレーションは煩い詮索をせず、すんなり門を開いてくれる。
 しかし日本の英明な青年は、同じ空の下、こうしたホスピタリティの恩恵に浴することができる者が、六十三億分の、せいぜい十億に過ぎない現実を忘れてはいけないだろう。
 人間は、置かれた環境によって、同じものを見ていても見え方がまるで違ってくるものだ。国籍もまた然りである。日本人にとっては何でもない入国審査カウンターを、「持たざる国」に生まれ合わせた人類のマジョリティは乾坤一擲の強行突破作戦を敢行すべき決戦場と視覚する。彼らの心情には偽善的な国際交流・友好の概念が容喙する余地はない。
 様々な国に関心を抱き、移り気に旅行先を選べるのは現代日本国民の特権かも知れない。だが、いつまでも日本を非凡な強国に育て上げた父祖の遺産の上に安穏とし、第三世界の羨望を尻目に大名旅行を繰り広げていくことが真に品性ある国民の姿だろうか?
 アジアの途上国を訪れたら、書店の語学書コーナーを覗いてみよう。欧米や日本といった先進国の言語と中国語の教科書ばかりが並び、反面、似たような国力しか持ち合わせない近隣諸国の言語教材は驚くほど希薄なアンバランスぶりを目の当たりにするだろう。
 私は多くの民族(宗教)対立、地域紛争の原因は、相互理解の機会が不十分な点と、無関心に居直った夜郎自大な世界観であると考える。だからこそ「どこへでも行ける日本人」は、旅先で邂逅した人々に、日本のことばかりでなく、他所の国で得た見聞を伝え、場合によっては彼らを適宜結びつけ、ささやかながらも具体的に世界平和に寄与する責務を自覚してもよいのではないかと思う。・・・これが、私が提言してやまない21世紀を生きる日本人のためのツーリズムの骨子である。

セントラル・ルソン・ステイツ・ユニバーシティー
 現地入りして、のっけから四時間半の深夜ドライブを経、ヌエバエシア州の州都サンホセにほど近いCLSUのゲストハウスに投宿した。今先生とお弟子さんたちの、同大学生との交流会は、はじめ合戦でも始めるかのように両派が分かれて陣取っていたが、自己紹介を経て、まもなく水彩絵の具が水に溶け込むように融和し、傍観者はホッと胸を撫で下ろす。感心したのは、フィリピン人学生の名前を当て字で、書墨にしてあげている学生さんたちがいたことだ。当方がトロントの刑務所で囚人仲間に同じサービス(但し、鉛筆書き)を提供し、食料やタバコに不自由しない処世術を身につけたのは齢三十を過ぎてからの話である。省みて今ゼミの諸君は現在二十歳前後。逞しい国際人の素質があるかも知れない(?)。
 広大で、公園と見まごうほど緑豊かなCLSUのキャンパスは、タイ国ナコンパトム県にあるカセサート大学カンペンセーン校に共通する雰囲気が横溢している。正直なところ、初めて訪れたという気がしなかった。日本の都市郊外の町なら丸々ひとつ納まってしまうくらい広い敷地を占有するのは、農学をメインに据えたアジアの大学ではありがちな伽藍のパターンなのかも知れない。ちなみにCLSUの卒業生にして、隣接するPCCカラバオセンターの主任研究員Dr.ダンもカンペンセーンを訪問した経験があるようで、私の指摘に対し、やはり母校と酷似しているような印象を受けたと言い、相好を崩していた。
 ここの施設で特に面白かったのは、図書館に併設された博物館だった。編み笠の形ひとつ取ってみてもベトナムやインドネシア(スラウェシ)、支那大陸華南地方との交流が感じられ、脱穀器具には日本の黒潮文化圏とも如実な類似が認められる。展示物は総じて貧弱だったが、これだけでもルソン島が、海洋民族を媒介とした東アジア世界の壮大な十字路に位置付けられていた事実を伺い知ることができた。
 ところで、限られた時間でひとつの国の国情や民情を立体的に把握しようとしたら、一定の精度が確保されている「物差し」が必要になってくる。ありていに言えば、他の国や地域との比較である。博物館見学を例に挙げても、他所の事情に無知であれば、とどのつまり退屈な古道具の検分に終始し、アジア世界の歴史的な交流の痕跡を探すという文明国人らしい作業はおぼつかないだろう。フィリピンは植生や気象においてマレーシア或いは中国海南島に通じるところがあるけれど、人文学的には圧倒的にタイがお誂え向きな対象であるように思われた。道中、私は折に触れてフィリピンとタイを比べ、その共通性に一々驚くことになるのだが、タイを漠然と基準に定めたのは、CLSUキャンパスを逍遥している時だったかも知れない。

PCCカラバオセンター
 フィリピンのスターバックス御用達、カラバオミルクは脂肪分が多い。脱脂粉乳に脂肪を過分に戻し、たっぷりの水でかき混ぜたらこんな味になるのではないか。馴染みのない味だが、この国に関わる以上、しのごの言わずに慣れるしかない。
 私が関心を向けているのは、計六百頭の水牛が一日あたり三トン「製造」してくれる高品質の堆肥原料(糞)である。飼料の牧草はサイロで乳酸発酵したものを含めイネ科が7、マメ科が3。成分は安定しているはずだ。周囲の穀倉地帯から藁材を調達し、攪拌、野積みにして発酵させれば半年余りで良質な有機堆肥が出来上がるだろう。来年の十月にJICAが撤退したら、定石通りに考えて、手作業で作った乳製品しか現金収入のない同プロジェクトは打ち切られる。願わくは日本の然るべき農事組合と提携し、事後の体制を固めてほしいものである。
 JICAの職員から話を聞いた。「転進」が間近に迫っているせいか、何処か投げやりな風情で、突然「バターン半島死の行進」を、アメリカ側の受け売りそのままに復唱したりする。あのぉ〜、フィリピンにおける乳製品の自給率の展望はどうなんでしょ?水牛の糞の有用活用に関する計画は?・・・ところが、泉下の末次一郎先生にお聞かせするのも憚られるような特別行政法人職員の益体もない能書きがだらだら続く。在比邦人は、他のアジア諸国に散らばる日本人より東京裁判史観にかぶれた間抜けが多いのだろうか?あまつさえ、さかしらに祖国や先達の名誉を軽視したがる傾向は、何故かお上から月給を戴いている人士に限って多い。年上風を吹かせて若い学生に「歴史を知れ」などと説教を垂れる前に、自分たちこそ輓近の民間企業が置かれた苦境を弁えるべきだろう。ビジネスマンは暢気な公務員のように奇麗言など並べていられないのだ。まずは、『樺太1945夏氷雪の門』を観て、職場を守り抜く公僕のあるべき姿を学んでもらいたい。

フィルライス(フィリピン稲研究所)
 フィリピン稲研究所と、これに先立ち、他一箇所の稲作試験場を見学した。最初に訪れた中華系の所だが、真の出資者は日本政府だという。フィリピンでも、日本人は支那人にカネと名誉をとことんパクられている。コメ作りの技術については後で述べる事情により、ひとまず頬被りを決め込むとするが、ハード面の細部構造はもちろんのこと、ボディーの色調まで、あからさまに日本の有名農機メーカーの製品をコピーした中国製トラクター、コンバイン、動噴の数々が、いけしゃあしゃあと展示されている厚顔無恥には呆れ返った。とは言い条、同所の作業場において、平成五年の暮れにナコンサワンの精米所で度々見かけた物と同型の、緑色のごっつい中国製精米機を発見した時は、続編シリーズでデスラー艦隊と再会した宇宙戦艦ヤマトのお馬鹿クルーたちのように、思わず複雑な懐かしさに浸っていたが。
 午後、フィリピン稲研究所へまわる。木酢と竹酢をごちゃ混ぜに作ってしまう荒業には、痛快な賛辞を送りたい。それから、籾殻薫炭の解説は大いに参考になった。ただ、同じ地域にカラバオセンターがあるのだから、ここで発生する籾殻に限って言えば、水牛の糞の発酵資材として活用していったほうが効率的に地域全体の利益を生むのではないか?と素朴な疑念をいだく。また、早くからフィリピンで開発された「奇跡の稲」を導入しているバングラデシュで、現在起きている深刻な土壌問題(専用肥料による副作用)について、どのように考えているのか質したかったが、うら若き女性説明員は誇らしげに「オーガニック」を連発している。この分じゃ、水を差すような質問を試みても畢竟何も答えられまい。ミラクルライスは、予想される問題に気づいた日本人のパイオニアが研究を投げ出し、その後フィリピン政府が中国人の協力を得ながら積極的に開発を継承した経緯がある。いじめっ子にはなりたくなかったし、背景を慮れば毛を吹いて疵を求める愚を冒しかねない。言わぬが仏、追求は差し控えた。 合掌。

GAPAN
 サンホセはヌエバエシア州の北寄りに位置するが、同州の南端に控えるのが「履物の町」ガパンである。早朝CLSUを出立し、殷賑なガパンの町には昼前に着いた。
 ところで二ヶ月前、大阪のタイ総領事が和歌山市役所を表敬訪問した際、市役所に両国の国旗が掲げられていなかった。国際儀礼を弁えていない国際交流課の担当者が“和歌山の塾長”から大目玉を食らったことは言うまでもない。さて、ガパン市役所は如何に?・・・和歌山市役所と同じレベルだった。日の丸は、影も形も見当たらない。もっともドネーションをぶら下げているとは言え、我々は総領事のように一国の代紋を背負って訪問しているわけではない。“静岡の塾長”は黙っているし、余計な発言は差し控える。そして、不意打ちと言うべきか、地元のお母さんたちによる歓迎の踊りに面食らった。なかなか手ごわそうな町である。いたく気に入った。
 そのあと、小学校で児童の歓迎を受ける。結成されて一年目の器楽部の子たちが、先年静大生が持ち込んだピアニカを演奏してくれた。今後ドネーション先はガパン以外の土地へ移行していくだろう。いつの日か、ソルソゴンの子供たちにも合流を呼びかけて、縁のあったフィリピンの子供たちによるピアニカコンクールを開催してみるのも面白いかも知れない。なお、ここでも学生さんたちの即応力が発揮され、交流会はあたかもサイン会の様相を呈し、盛り上がっていた。
 レイさんの別荘で休息ののち、ナディビダッド市長の邸宅にホームステイさせて頂いた。東南アジアの国々で政治家の家に身を寄せるケースはしばしばだが、今回の場合は、ちょっと勝手が違う。親しくなったから居候させてもらうのでなく、まず居候させてもらい、それから親しくさせて頂くという段取りだ。だから、最初は市長の思想や政策、そして思惑がわからない。今先生と羽根田氏、頼もしい大和撫子の両人に会話を委ね、私は「ぴよちゃんゴメンね」と呟きながらバロットを頬張り、浅瀬を踏むように市長の出方を伺う。あくる朝、それらしい回答があった。日本の然るべき自治体との“姉妹都市協定”の締結。なるほど、狙いは悪くない。見合い相手を見繕って来るくらいならお安い御用だが、どれ、せっかくだから日本だけでなく、ASEAN各国からも、ひとつずつ履物の町を抽出し、極東スリッパ・アライアンスでも組織してみようかね・・・

マバラカットのにわか雨
 パンパンガ州のマバラカット市郊外。一陣の砂塵の出迎えを受けて「神風平和記念廟」の前に傅き、日本のタバコに火をつけ、乾いた火山灰質の地面に立てて、合掌。
 佐野塾長から、学生さんたちに特攻の説明をせよ、との沙汰。捷一号作戦の概要を語ろうとすると、「え〜。フイリッピンは佐野塾長や羽根田さんが先任であり、本職が説明申し上げるのも僭越ですが・・・」などと、前口上から怪しげな語彙が混ざりだす。時間の都合で、沖縄作戦や大西瀧次郎中将の壮烈な最期は割愛せざるを得なかったが、今教授の補足も賜り、とにかく伝えたいことを喋った。もちろん、特攻隊の残像と向き合ったら百万篇の弔辞も薄っぺらである。せめて、オッサン三人で精一杯、『海ゆかば』を唱和した。
 当の日本人は、とかく言い訳がましい屁理屈をつけて忌避したがる歴史の真実だが、マバラカットの人たちは、そうした矮小な議論など相手にせず、袖擦り合った日本の若鷲たちのために廟を建て、これがピナツポの火山灰に埋まってしまうと律儀に再建し、かれこれ六十年にわたって恤みつづけていてくれた。お話を伺うことができたご老体は昭和19年の秋、七歳だったそうだが、敷島隊、朝日隊、大和隊、山桜隊出撃の情景は昨日のことのように覚えている、と言っていた。現地人の飾らない真心に、平成日本人のはしくれは大いに赤面した。おもむろに学生さんたちがいつもの柔軟さを発揮して、地元の子どもたちと遊び始めた。無邪気な平穏に、なぜか感無量。
 天を仰ぎ、雲流れる果てを見据えながら哭いていると、にわか雨が降りだした。

フィリピン大学
 ケソン市のUPはフィリピンの最高学府である。咀嚼と消化は後日に委ねるとしても、スタディーツアーという機会に、訪問国の“一流”に触れたのは、学生さんたちにとって貴重な経験になっただろう。
 残念だったのは、ガイドをしてくれた女性が、大学の持つ社会的意味を取り違えており、異邦の学生に対し、あたかも新入生に学校生活のガイダンスを施すような調子で、校舎の配置の説明に終始したことだった。即物的な解説など、ストレンジャーには無意味であろう。むしろ大切なのは、この大学で、どのような研究が行われ、成果を挙げてきたのか、どんな人材を輩出してきたのか、ではないか。私個人としては、フィリピン人自身の口から、ホセ・リサールの英雄伝説のひとくさりでも聴かせてもらったほうが、ずっと有難かったように思う。

セント・リタ・カレッジの孤児院で因業を想う
 ケソン市パナタスのゴミ集落は、外面だけ見る限り、想像していたよりも明るかった。何年か前、バンコクでニュースを見ていて「フィリピン国マニラのスラムで“ゴミ崩れ”。死者多数」という報道に接したことがある。現場が煙の山で有名なトンドだったか、新しくできたこのパナタスだったか、よく覚えていない。ただ、あの時の暗澹とした衝撃が脳裏で反芻しはじめる。民情と、或いは住民に希望をもたらすかも知れない資源ゴミに興味があり、少し集落の内部に立ち入ってみたかったが、学生さんたちを巻き込むのは忍びない。ざっと様子を伺ってからセント・リタ・カレッジをめざす。
 二階の保育室で何気なく触れた乳児が、私の指を二本握って放してくれない。ここにいる子供たちは見世物ではない。別に全員の顔をあらためる必要もなかったが、生後十一ヶ月の乳児に因業の何たるかを諭された気がして、私は大いに戸惑った。最近の日本では、人の親になる資格のない手合いが安易に子供をつくり、育てようにも手に持て余し、挙句、虐待というケースが、メディアと称する無責任なゴシップ屋どもの食指を鼓舞している。家族を大切にするはずのフィリピン人にも、似たり寄ったりのゲシュタルト崩壊が忍び寄っているようだ。人類の尊厳は、いま、ものすごい勢いで劣化しているのかも知れない。
 この赤子が固執する対象に、異邦のヤクザ者の汚れた指はふさわしくない。たとえどんなにハンパな女であっても、この子と臍の帯でつながっていた母親に勝る存在はない・・・などと、せんないことを考える。望むべくは慈悲だが、弁えなければならないのは予定調和の諦観。いずれにしても、信じる者は救われる、なんてのたまう耶蘇の教義は嘘っぱちだ。元気でな、同じ時代に生まれ合わせた相棒よ。敬礼して、そっと小さな掌をふりほどく。まさかマリア観音を拝む施設で、仏教的思考に耽ることになるとは夢にも思わなかった。園庭に出ると、例によって学生さんたちが孤児院の子供たちと和やかに遊んでいた。
 今度のフィリピン訪問は、釈然としない疑問符と格闘を試みる旅でもあった。以前から旧宗主国の君主の名前を後生大事に国号に戴いている「共和国市民」の感覚が理解できなかった。グローバリズムの先例というべきカトリック文明は、共産党までもがその暦を当たり前のように用いるほど人口に膾炙されてしまっているが、東南アジア世界特有の好ましい無節操はフィリピンも例外でなく、セント・リタ・カレッジの敬虔な空気に触れても宗教的違和感をおぼえることはなかった。
 疑問符は消えたわけではないし、消えるはずもない。よしんばひとつのクエスチョンマークが霧散しても、フィリピンとの関わりが深くなればなるほど、新たな不思議が自乗しながら増えていくことだろう。異国とのつきあいとは、すべからくそんなものだ。
 私はフィリピンという名の迷宮を、大いに歓迎したいと思う。


シニア・スタディー・ツアーの提唱
 敢えて不謹慎な言い方を弄すれば、大東亜戦争において五十万の先輩が散華せられたフィリピンは、戦跡ツアーの資源に事欠かない。そもそも「先人を敬わない民族は滅びる」というのが世界の定説である。十七年前、クアラルンプールの日本人墓地(吉隆寺)の改修工事を呼びかけた立場から言えば、明治・大正期のからゆきさんが数多眠っているであろう日本人墓地の存在も無視できない。リサール公園の日本庭園も含め、荒廃している日本関係の施設の存在を知ったら、その都度万難を排して改修プロジェクトを企画、実行していく必要があるだろう。スタディー・ツアーのシニア版は、こうした少なからずコストを要する事業を実現に導く上で、もっとも有効な啓発手段になるはずだ。
 もっとも、若い学生なら難なく順応できる現地の諸事情も、一定の年輪を重ねた日本人には悪印象になりかねない要因をいくつか孕んでいる。今回体験した範囲内で改善点を指摘すると、まず、しばしば断水状態に陥る水道の対策が挙げられる。入浴もシャワーだけでは不十分。日本人の滞在を想定する施設には大容量、高水圧の給水槽とバスタブつきの浴室を条件付けたい。食事の面では、日本人の体質には野菜が欠かせない。国が奨励する一日当たりの野菜摂取量は350g。量もさることながら、申し訳程度の品質では不十分である。懇意な稲作農家と専属契約を交わし、必要な種苗、資材を供給しつつ、良質の野菜を栽培させていくのもひとつの方法だろう。ノウハウの蓄積は、ロングステイ事業の展開にも明確な道筋をつけるはずである。




案件事項
マニラ市ホセ・リサール公園の「日本庭園」


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