皆既日蝕
皆既日蝕があった。
タイは朝野をあげて、たいへんな騒ぎになった。
これに先立つこと半年前、臣民の敬愛を一身に集めておられた王母殿下は薨去せられ、
半月前には名宰相、ククリット・プラモードが鬼籍に入った。
日蝕は、古来どこの民族からも、いまわしい凶兆と受け止めてられいる。
わざわいじゃ・・・
地方農村では、太陽と地球と月の相関関係が理解できず、パニックに陥り、
しまいには自殺してしまう人が何人も出たらしい。
わざわいじゃ・・・
だが、死体すらも娯楽の材料にしてしまうタイ人が、
こんなお祭り沙汰を抛っておく道理がない。
この国の気候風土に順応しきった物見高い日本人とて同じこと。
ところがバンコクの緯度では、皆既にならず、部分蝕しか見れないという。
すこし北へ移動しなければ皆既日蝕を見ることはかなわなかった。
そんなわけで、
サンワン先生の仕切りにより、ソーソートーでタイ語を習っている人たちにくっついて、
世紀の天体ショーが最もよく見えるという (誰が言い出したのやら)
ロッブリー県のばかばかしく広大な地鶏農場へ見物に出かけた。
四方を囲む山並みまで、普段ニワトリを放し飼いにしている敷地である。
ちなみに現在、日本の食肉市場では、
アメリカ産よりタイ産鶏肉のほうが高値で取引されているけれど、
この飼育環境を見れば、消費者も多少は納得できるに違いない。
訪れた人々は、好き勝手な場所で、好き勝手なことをやっている。
バンコクの名門女子高の生徒たちが、
観光バスを仕立てて乗り込んで来た。
どの姐ちゃんも、親のブルジョワ度ばかり自慢し合っていて、
空にはまるで関心を示さない。
「お前ら、一体何をしに来たんだ ? そもそも
金持ちの娘なら、観光バスなんかで来るんじゃない」
なぜか記念写真を撮る、第一師団の新兵さんたちもいた。
このあたりの人々は、着ている物から判断して、日本人だろう。
ぱっと見た限り、ギャラリーはスカスカだが、この日の農場には
約四万人が全域に散開し、あぶない宗教団体の信者のごとく
揃いも揃って天穹を仰いでいたのである。
省みるとサンワン先生はただひとり、インナートリップをはじめていた。
↓... クリックすると人相書きが出ます
まるでタイラット一面の、"草むらで発見された男性の他殺体"だ。
そこはかとなく声をかけるのが、憚られた。
ソーソートーの人たちは毛並みが良いので、私には共通の話題がない。
仕方がないので、土の写真を撮りながら世紀の天体ショーの幕開けを待った。
鶏糞をたっぷり含んだ土は、乾いてしまうと白く見える。
しかし、ひとたび雨が降れば立派な有機土壌になるはずだ。
いちおう、チェック。
そうするうちに、人々のどよめきが上がった。
太陽がいよいよ月の裏側へ隠れ始めたのだ。
数分後に、おおむね同じ位置でシャッターを押してみた・・・
僧侶たちが読経をはじると、すさまじい風が吹き荒れた。
生まれて初めて体感する、天空から投げ落とされた引力作用だ。
辺りはみるみる暗くなっていく。
まるで、悪夢を見ているようだった。
そして、静謐。
2000バーツのパカチョソでは、これが目一杯・・・金環食の瞬間。
しかし、わずか一分少々の出来事だった。
太陽が元に戻ると人々は一斉にバスや自家用車に殺到した。
バンコクは車が多いからではなく、都市規模のわりに道が極端に少ないから渋滞する。
この日のロッブリーには、その構造が煮詰められて引っ越して来ていた。
農場には出口が二箇所しかなかった。
おまけに、狭い。
さらにに言えば、外には国道が一本しか走っていない。
当然のことながら、あちらこちらでクルンテープナンバーが犇めき合う。
何が「神秘の天体ショー」だ ?
しょせん下界は俗物どもの戦場である。
場所の提供は地鶏農場にとって、カネ儲けの段取りだった。
農場側は、客を入れるだけ入れて、あとは見事に頬かむり。
バンコクに戻る百数十キロの道程は、約十一時間の長く緩慢な旅路となった。
タイランド