第20回 日タイ友好長政まつり 見聞録

平成17年10月9日  日曜日   
夢門前 静岡浅間神社通り商店街

 清水次郎長が、「駿府城下で山田長政公を顕彰なさっている町方衆に、ひとつ肩入れしてやってくれねえかい」と小金井小次郎に打診した史実があるかどうかは判らない。…新門辰五郎の媒酌で両者が兄弟盃を交わしていたことは事実だが、おそらく、そのような「前例」はないんじゃないかと思う。

 静岡市清水区に本拠をおく海外支援協会の池田達彦さんから、小金井の私のところへ、『静岡市の国際交流協会の会合にさ、浅間通り商店街の佐藤さん(理事長)が来ていたんだよ。知っているだろう?長政まつり。今年は二十回目ってんで、すごく力がはいっているんだ。それで、どうせならタイ大使館を巻き込んで盛り上げたら、って言っておいた。アンタのこと紹介しといたからさ、あとは上手くやってくれ。よろしく』…と、内容を考えるとずいぶん簡潔な調子で連絡があった。

 夢門前。ありていに言って、JRの駅に近い七軒町あたりと比べて、時代から置き去りにされた趣のある静かな商店街だが、ここは山田長政だけでなく、私が個人的に崇拝している由比正雪も排出しているほど香ばしいスポットなのである。
 長政まつりは、この商店街が毎年秋に開催している大型イベントだった。郷土の偉人を軽んじたり、忘却することも珍しくない平成の日本にあって、文字通りの町方衆が、このような行事を継続してていることは、心底敬意に値するのではないか。

 しかし、如何に人生意気に感じようと、こちとら単なる食い詰め浪人であって、職業的ロビイストでも何でもない。そんなご大層な約束をポンポン交わされたって責任は持ちかねるけれど、精神力と体育会的秩序を尊ぶ特殊な社会における先輩のお言葉とあっては、私もとぼけてしまうわけにいかなかった。

 在日タイ公館は東京の大使館と大阪の総領事館である。総領事館の管轄は基本的に案件が集中している関西圏のみ。あとは北海道から沖縄まで、原則的に東京の大使館が仕切ることになっている。つまり静岡県は、大使館のテリトリーだ。しかし、わずかばかりとは言え公館の内部事情を認識している私は、遠交近攻、いきなり縁談を持ち込んでも梨のつぶてが予見される"目黒"ではなく、実働部隊が集まる"堺筋"を目標に初動を仕掛けることにした。


 少し前まで、タイではアユタヤ時代の英雄オークヤー・セーナピモック(山田長政)が日本人であったことを否定する気運が高かった。「発展途上国」というコンプレックスが強い国は、せめて歴史の中に、自分たちの誇りを慰めるような虚構を組み立てようとしたがるものである。
 しかし、ここへ来て、欧米諸国に意見できるほどの国力を身につけ、体制の異なる近隣諸国にバーツ経済圏を広げはじめたタイには、「達観」というゆとりが芽生え始めたらしい。自分の目で確認したわけではないが、東京の大使館に詰めるシントン参事官から、「小学校の歴史教科書に、ちゃんと"セーナピモックは日本人"って、書いてありますよ。いまはね」と教えられた。

 シントンさんは、アユタヤと同じ中部地方、チョンブリ県の出身である。アユタヤを中心とする中部地方では、ビルマとの戦争に勝ちまくったセーナピモックは英雄だが、六昆、すなわち南部のタイランド湾に面した地方では、自分たちの祖先から文化を奪おうとした「アユタヤ人の侵略者」であり、あまり歓迎できる存在ではないのではないか。かつて私がジプソンを掘っていたのは、ちょうど長政が上陸したナコンシタマラートであり、そこで知り合ったインテリたちは、長政について多くを語ろうとしなかったことを覚えている。
 時代は変わるものである。後知恵ながら、ナコンシタマラートの町には現在、石川県の日タイ交流協会が、森元首相の筆で、「山田長政ここに眠る」という碑を建立しているという。

 いずれにしても、タイ人に山田長政の市民権が認められた以上、公館を静岡にリンケージさせる大義名分は整った。はじめ、TAT(タイ政府観光庁)に、「こんど新しい空港ができるんだから、静岡の人たちにもタイへ来てもらいましょうよ。観光PRになりますよ」と、因循姑息なお為ごかしを言ってトバ口を開かにゃならんか…と思っていた私は、これでずいぶん工作がしやすくなったわけである。

 
 工作の仔細は「企業秘密」なので割愛する。
 また、私の役割は両者に条件を提示し、結びつけた時点でほぼ終わっており、あとは商店街の若手旦那衆のホープ、吉沢さんが公館サイドと着実な打ち合わせを続けてくださった。
 夏の終わりにタイ大使館から最終的なGOサインが出た。おまけに、協賛の名義は大使館だが、実質的には大阪の総領事館のスタッフが取り仕切るよう、こちらとしては最も歓迎したい通達までつけられていた。

 私は事前に数回、調整のために駿府入りしたが、さすがは地に足の着いたビジネス集団、進展中の段取りに、ことさら私が口を挟まなければならないような問題点は見当たらなかった。

 かくして、10月8日。甲州街道から朝霧高原を抜け、富士宮の浅間大社へお参りしてから駿府城下に入った。

 
 夕方、大阪からモンコン領事とTATの井上さんが静岡入り。じつは、このコンビこそ、関西圏で毎年二回のペースで開催されている一連のタイ・フェスティバルの立役者なのである。ちなみに代々木で五月に行われるイベントも、一等書記官として大使館に詰めていた当時のモンコンさんが始めたものだったりする…。井上さんとは去年の和歌山でもお目にかかっていたが、名刺を交換するのは今回が初めてだった。
 援軍の先遣隊は、いみじくもその数ヶ月後に「話題の物件」となる三交イン静岡で旅装を解き、櫻蕎麦河内庵で最終的な打ち合わせが行われた。


なお、河内庵は蕎麦寿司の元祖家元である

四番街の生家跡地の長政像

まつりの実況

午前の部

午後の部



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