基本認識




 ある時、歴史小説を読んでいて、テーマとはまったく関係の無い、そして当たり前で、しかしきわめて重大なことに気がついて、総毛立った。
 いま、自分たちは歴史上の人物や事件について、簡単に意見を述べ合うことが出来る。
 その癖、マスコミ人を筆頭に、誰もが口をそろえて「出口の見えない現代」を不安がっている。
 「自分を棚に上げて」というが、まさに言い得て妙な尊大ぶり、否、救いがたい愚かしさではないか。


 時間というのは、古いほうから順にならんでいる(当然の摂理だが、方近、この程度の理屈もわきまえていない言論人があまりにも目立つので、一応釘を刺しておく)。 いつの時代でも、人々は「出口の見えない現代」に生き、我武者羅になって突破口を見つけ出そうともがき、置かれた時代環境を真面目に受け入れながら、いろんな試行錯誤を繰り返す。その結果が戦争であったり、「瓢箪から駒」的な僥倖であったりする。


 省みて、自分をふくめた「現代人」の、なんと浅はかで傲慢なことよ。自らは現状打開に有益なアイデアを出そうという努力もせず、ひたすら手をこまねいている分際で、他人や先人の行いに対しては、いっぱしのコメンテーターを気取りたがるやつばかりだ。歴史小説の登場人物はすべて「実践者」であって、「評論家」が出てきた例はない。よしんば出てきても、三国志の孔融みたいにあっけなく消されてしまう三枚目が関の山だ。ざっと見回す限り、平成十五年の日本人に、三百年後の人間が伝記を読みたい、と思ってくれそうな人物はひとりもいない。
 べつに自分が歴史の主役になる必要は無い。中途半端な才覚を持った連中の、「おれが、おれが・・・」の相克が、ロクな結果を生み出さないことを我々は知っている。さりとて、自分も歴史の脇役である、という自覚を持たないのは無責任以外の何物でもないはずだ。特に、子供がいる人たちは、なおさらだ。


 アメリカや中近東をぶらぶらしていた頃、しばしば「オイル」の採掘権の話題に触れるたびに、首をかしげたことものである。現在、地球の原油は究極埋蔵量が一兆七千億バーレルほどだろうか? そして、石油に代わる資源はいまのところ研究の段階であり、果たして実用化できるのかどうか、保証は無い。ところが、である。立派な背広を着て、如何にも高学歴と血統のよさを匂わせるアメリカのビジネスマンどもは、「バーレーンの○○油田の採掘権は我が社が獲得した」と誇らしげに吼えたりする。バーレーンのサルタンだか、誰だか、とにかく現地の偉い人と交渉がまとまったらしい。しかし、何億年も前から醸成されてきた埋蔵資源の所有権を、現代人同士が勝手に決めてしまっていいものだろうか? 代わりに引き渡す資材も用意できないうちから、子孫にまわす分を考えず、カネに替えられるだけ替えてしまうのが、民主主義なのだろうか。イスラム教徒も、教義そっちのけ、まったく同じレベルである。

 もっとも、軽自動車だろうが、車に乗っている私に、生意気を言う資格がないことは解っているつもりだが・・・

 石油は恐竜の死骸だから、地球にとっては皮膚の下に溜まった「膿」のようなものである。これを新手の寄生生物・人間が好物とし、貪婪に食い尽くそうとしたところで、まったく問題はあるまい。そして、天然の滋味を消費しつくした種は勝手に滅んでいくだけである。地球は、そんな栄華盛衰を見飽きているに違いない。必要なのは、ひとえに人間の自己反省だけである。


 尊敬はされずとも、せめて後世の人々から、「二十一世紀のやつらは馬鹿揃いだった」と恨まれないよう、心がけたい。つまり、「未来の尺度」で物を考える、ということか。もちろん、そんな尺度は自分の置かれた立場や知識の度合いによって、いくらでもパターンが生じる、あやふやな主観に過ぎないだろう。だが、それでも常に百年後、三百年後、千年後の人間の思惑を想像しながら、自分の人格の尊厳をまもるよう努めたい。



 現代人はせめて、森も、埋蔵資源も、「我々がご先祖さまから頂戴した遺産」ではなく、「子孫から、利殖の責任を委ねられている原資」と解釈するべきなのである。





基本思想



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